第27話 彼女の記憶を暴く香り
青年が去り、再び応接室に静寂が落ちた。
テーブルの上には、青年が香りを確かめるために数滴たらしたナプキンが残されている。
月下香の重たく甘い香りが、まだ室内に漂っていた。
「人間の記憶とは単純ですね。たかだか数滴の安香水で、地獄のような人生を生き抜く希望を見出すとは」
バロウズがナプキンをつまみ上げ、嘲るように呟いた。
顔色の優れないエンディミオンが口を開く。
「それをどうするの」
「どうもしません。処分します」
「だったら、私がいただくわ」
彼女は長椅子から立ち上がると、テーブルの傍へ行ってナプキンを受け取った。
「意外ですね。お嬢さまが、このような安っぽい香りを好まれるとは」
「好んでいるわけではないわ。ただ……」
エンディミオンは、右手で首元を押さえた。
青年が小瓶を開け、この香りを嗅いだ瞬間から、不可解な胸騒ぎと悪寒が止まらない。
それは抜け落ちている「記憶」の底を、鋭い爪で引っ掻かれるような、得体の知れない感覚であった。
「なぜ、この香りにこんなにも胸がざわつくの……?」
エンディミオンは、何かに取り憑かれたように、月下香の香りが染み込んだナプキンを自らの鼻先へと近づけた。
――その瞬間だった。
「えっ」
エンディミオンの視界がぐにゃりと歪んだ。
応接室の豪奢な壁紙が、床の絨毯が、一瞬にして燃え盛る業火へ変貌する。
「な……に、これ」
彼女の脳内で、精巧なガラス細工が粉々に砕け散るような破砕音が響いた。封印されていた扉が、香りの刺激によって一気にこじ開けられたような……。
視界を埋め尽くすのは、四方八方の紅蓮の炎。
熱でどろどろに溶けてゆく壁。焼け落ちる屋敷の天井。
そして――人々の断末魔。
『逃げて。早く。お願いよ。あなただけでも生き延びて』
血を吐くような女の叫び声がする。
直後、どす黒い鮮血が間欠泉のように噴き上がった。
燃え盛る炎の熱風と共に肺を満たしたのは、強烈な鉄錆の匂い、そして――むせ返る「月下香」の重たく甘い香り。
誰かが、血の海の中で、香水の香りを漂わせながら笑っている。違う。……香りは背後からする。
自分を抱きしめていた腕が急に離れた。直後、無惨に切り落とされて炎の中に転がった。
「あ……ああッ!」
エンディミオンの口から、本来は発せられるはずのない悲鳴が迸った。
「お嬢さま?」
驚愕したのはベルだった。
ただでさえ数日前の惨劇から精神をすり減らしていた彼女は、突然の主の狂乱に怯えながらも声をあげた。
「やめて。燃える。血が、血が……ッ! お母さま? 違う。お母さまじゃない。あなたは誰なの。ああ、腕が。腕を拾わなきゃ……」
エンディミオンは、月下香の染み込んだナプキンを放り出し、ヴェール付きの帽子をとって投げ捨てた。
乱れた金髪と、青が混じった銀色の瞳が露わになる。
顔は恐怖と苦痛で歪み、肌からは滝のような汗が噴き出していた。
「息が……できな……あ。あがっ」
彼女は過呼吸を起こし、水から引き揚げられた魚のように喘いだ。
瞳孔は限界まで見開き、虚空にある「凄惨な過去の幻影」を見つめている。
そこに冷徹な主の面影はない。
今のエンディミオンは、この世の地獄を目の当たりにした無力な少女でしかなかった。
「お嬢さま。しっかりなさって。お嬢さまぁっ!」
ベルは、主の元へ駆け寄ろうとした。
「触れるな」
メイドを鋭く制止したのは執事だった。
バロウズは両手を後ろで組み、エンディミオンが自身のドレスを引き裂かんばかりにのたうち回るのをじっと見ている。
漆黒の瞳に、うすら寒い歓喜の色が浮かび上がる。
唇が弓なりに弧を描いた。
「今回は早かったですね」
「……今回? どういうことですか」
ベルが咎めるような声をあげた。
「回を増すごとに早くなってきている。いいのですよ。私は何回でもお遊戯にお付き合いいたします」
「あ……ああっ。たす、けて。バロ、ウズ……!」
エンディミオンは何かを掴むように手を伸ばしたが、空を虚しく切るばかり。
しばらく悶えた後で、彼女はついに気を失った。
華奢な身体が、真紅の絨毯の上に投げ出される。
「お嬢さま。お嬢さま!」
ベルが駆け寄り、主の身体にすがりついた。
バロウズもつかつかと傍に寄った。
しゃがみ込むと、気絶したエンディミオンの頬をさらりと撫でた。
彼は興奮気味に言った。
「何度見ても凄惨で愛くるしい。さあ、目覚めの時が近づいてまいりましたよ。私のお嬢さま」
バロウズの囁きが、月下香の香りと共に少女の耳に絡みつく。
「あなたが失ってしまったもの。あなた自身が捨て、自らの心を殺してまで封印した『真実の記憶』を見つけ出す時が」




