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失せもの探しのエンディミオン  作者: kiyoaki


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第26話 彼にとっての母親の匂い

 貧民窟の泥と煤にまみれた青年が、黒百合の館の扉を潜り抜けたのは、冷たい霧雨が降る午後のことだった。

「……随分と匂うわね」

 エンディミオンは、これまでこなした依頼から匂いには敏感になっていた。血や汚泥や汚物の匂いには飽き飽きしている。

 彼女の前に縮こまるように立ったのは、ボロボロの服を着た痩せこけた青年だった。

 手足には長年の過酷な労働と暴力の痕が刻み込まれ、瞳には生きることに疲れた老人のような諦観が沈んでいた。

 彼は緊張から、どもりながら言った。

「も、申し訳ありません、お嬢さま。でも……どうしても、探してほしいものがあって」

 垢で汚れたフェルトの帽子を握りしめ、ひび割れた唇を震わせる。

「俺が探してほしいのは……『匂い』なんです」

「匂い、ですか」

 口を挟んだのはバロウズだった。

「また実体のないものを。形ある物すら失いやすいこの世界で、風と共に消えてしまう匂いをね」

 どこか非難めいた執事の口調に、青年は怯えたように目をきょろきょろさせた。


 部屋の隅には、給仕のためにベルがひっそりと控えていた。

 数日前の惨劇――自身の腕にある球体関節を知ってしまったあの日から、彼女は魂の半分が抜け落ちたようになっていた。

 しかし、人としての日常にすがりつくため、ドレスで関節は隠し、顔色の悪さは化粧で誤魔化して平常を装い続けている。

「お、俺は、物心ついた時からスラムの泥水に骨まで浸かって生きてきました。家族はいなくて、両親の顔すらろくに思い出せません」

 青年は過去を思い出しながら、掠れた声で続けた。

「で、でも……俺がまだ幼かった頃、高熱を出した時。誰かが俺を抱きしめて、ずっと子守唄を歌ってくれた。その時に嗅いだ、甘くて重たい……たぶん花の匂い。これが忘れられないんです。あれは絶対に母さんの匂いだった。あの匂いをもう一度嗅ぐことができれば……俺は自分が誰かに愛されていたと信じることができる。お願いです、母さんの『匂いの記憶』を探し出してはくれませんか」

 青年の瞳が潤み、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「母の匂い」は凄惨な現実の中で、彼が辛うじて人間としての心を保ち続けるための命綱だったのだろう。

「花の名前は? 色や形を覚えてはいないの」

 エンディミオンが尋ねた。

「確か白かったような。夜になると、咽せ返るほど強く香る真っ白な花……。母さんは、その花の香油をほんの少しだけ首筋に塗っていたんだと思います」

「夜に香る白い花……」

 エンディミオンが眉をひそめると、バロウズが口を開いた。

「『月下香(チューベローズ)』ですね」

「え?」と青年が顔を上げる。

「といっても本物ではないでしょう。月下香の香油は高価です。白檀(サンダルウッド)か、琥珀(アンバー)の香りが混ざっているはず。……スラムで出回る、合成化合物の偽物です。平民が好んで使う安香水です」

「わ、わかるんですか?」

 青年の声が高揚した。

「ええ。まあ……あなたも『記録』にありますから」

 バロウズは意味深なことを言い、軽く頷いてみせた。


 翌日、バロウズは灰璃の闇市を回り、スラムの調香師を訪ねて、小さなガラス瓶を手に入れてきた。

 それは、青年が幼少期に裏町で流行したという月下香の香りを模したまがい物の香水であった。

 この香水は裏道にたむろする街娼たちに愛用されていた。

 女を買いたい男たちは、安香水の強烈な匂いを頼りに薄暗い通りを彷徨ったのだ。おそらくは青年の母も、娼婦の一人だったのだろう。

 応接室に再び招き入れられた青年の前に、琥珀色の液体が入った小瓶が置かれた。

「さあ、お開けなさい。あなたが探していた母親の記憶よ」

 エンディミオンに促され、青年は震える手で小瓶の栓をゆっくりと引き抜いた。

 用意されたナプキンに、香水を数滴たらす。

 その瞬間。

 重く、甘く、どこか退廃的な月下香の香りが室内にじわりと広がった。夜の闇の中で、媚薬のように匂い立つ強烈な芳香。

「あっ……!」

 青年はナプキンに顔を近づけ、香りを吸い込んだ。

 途端、雷に打たれたようにその場に崩れ落ちた。

 彼の脳裏に、擦り切れたはずの記憶が色彩と温度を伴って蘇る。

 貧しい者たちが雑居する狭い屋根裏部屋。

 激しく打ちつける雨の音。高熱に喘ぐ自分をしっかりと抱きしめる細い腕。最初から父親はいなかった。傍らにいたのは栄養失調でやせ細った母の姿。

『大丈夫よ、大丈夫だからね……』

 と囁く優しくも疲れきった声。その首筋から漂ってきたむせ返るような甘い匂い。

「母さん。母さん……。ああ、そこにいたんだね」

 青年は小瓶を胸に抱き、はらはらと涙をこぼした。

 彼の人生において、その香りだけが「彼が誰かに愛されていた真実」を証明してくれた。

「ありがとうございます。黒百合の館のお嬢さま。俺はこれで生きていけます。俺は愛されていた……」

 青年は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、エンディミオンに頭を下げた。

 エンディミオンは、扇で自らの口元を覆っていた。

 室内に充満していく月下香の匂いに、何か嫌な予感がした。彼女は努めてそっけなく、そしてどこか急かすような声で言った。

「失せものが見つかったならそれでいいわ。さあ、もうお帰りなさい」

「お客さま、よろしゅうございましたね。出口はこちらです」

 バロウズが手際よく青年を促した。

 青年は「はい」と顔を綻ばせ、小瓶を胸に抱いたまま、何度も礼を言って館を後にした。


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