第23話 ベルの破れたリボンと主従の思い出【後編】
応接室に戻ると、ベルは暖炉の前で膝を抱えてしゃくり上げていた。バロウズは傍らに立ち、泣きじゃくるメイドを見下ろしている。
「ベル。顔を上げて」
エンディミオンの声に、ベルが赤く腫らした目を向けた。
彼女の視線の先には、手のひらに乗せられた見覚えのあるリボンがあった。
「ああっ。私のリボン……!」
ベルは喜びの声をあげ、ふらつく足取りでエンディミオンの元へ駆け寄った。
「ありがとうございます、お嬢さま。本当にありがとうございます。私の命より大切なリボンです」
「大袈裟ね。こんなものいくらでも替えがきくのに。さあ、私が結んであげるから」
エンディミオンは、指先の血をハンカチで拭い、するりとベルの背後に回った。
「あ、お待ちくださいお嬢さま。お召し物が……それに指先にお怪我を」
ベルは主の袖が裂け、血が滲んでいることに気づき、慌てて振り返ろうとした。怪我を確かめようと身をよじり、腕を大きく伸ばした。
その時である。
激しい動作によって、ベルのエプロンドレスの袖口が肘のあたりまで大きくめくれ上がった。
エンディミオンは手元に集中していたため、その「異変」には気づかなかった。
露出したベルの右腕。白くなめらかな肌の途中に、ぱっくりと不自然な「継ぎ目」が存在していた。
そこには血の通った肌の代わりに、精巧に磨き上げられた陶器の「球体」と真鍮の蝶番が嵌め込まれていた。これは無機質な人形の構造であった。
「……っ!」
ベルはめくれ上がった自分の右腕を見て、小さく息を呑んだ。
「ベル、動かないで。リボンが曲がってしまうわ」
背後から、エンディミオンの穏やかな声がする。
繊細な指先が、ベルの栗色の髪にリボンを結びつけていく。
「は、はい、お嬢さま……」
ベルは動揺を隠すように慌てて袖口を引き下ろし、「球体関節」を布の下へ隠し込んだ。
顔には再び無邪気な微笑みが張り付く。「人間のメイド」の表情であった。
「できたわ。もうなくさないでね」
エンディミオンが満足げに頷く。
「はい。お嬢さまが結んでくださったこのリボン、今度こそ一生外しません」
ベルは嬉しそうにくるりと回ってみせた。
エンディミオンは、じくじくと痛む指先を見つめながら小さく息をついた。
二人を見守るバロウズの顔には、この世のすべてを嘲笑うかのような、酷薄で残忍な笑みが浮かんでいた。
人間ではない精巧な陶器の人形。それが涙を流し、心を痛め、無邪気に笑う。
彼は知っていた。
この「黒百合の館」において、狂っていないものは一つも存在しない。
「素晴らしい主従愛でございますね、お嬢さま」
バロウズの低くなめらかな声が、妙にねっとりと響く。
「自ら血を流してまで、メイドの『失せもの』を取り戻されるとは。しかし、今回はリボンでよかった。この世には絶対になくしてはいけないものがあります。自らを形作る『真実』ならば、尚更……」
その言葉の真意を、今のエンディミオンは理解できない。
彼女は怪訝な視線を向け、声に苛立ちを滲ませた。
「何が言いたいのバロウズ。戯言はよして」
「これは失礼しました。私の取るに足らない独り言にございます」
バロウズは恭しく一礼し、薄暗い部屋の影へその身を溶け込ませた。
灰璃の霧は、今日も館の真実を隠し続ける。
無邪気なメイドは、自分が人形である事実から目を背け、感情を失った主はメイドが人間でないことに気づかないまま。
ベルの髪を飾る青いリボンが、主従の絆の証として淡い光を弾いている。




