第22話 ベルの破れたリボンと主従の思い出【前編】
黒百合の館は、規模の割には暮らしている人間が少ないこともあって、常日頃は静寂に包まれている。
が、その日の午後は、館の廊下にひどく切羽詰まった足音が響き渡った。
「ない……どうしよう。どこにもないわ!」
エプロンドレスを翻し、半狂乱になって館中を走り回っているのはベルであった。
普段は春の陽だまりのように無邪気で、笑顔を振りまいている彼女が、目尻から透明な雫を滲ませ、栗色の髪を振り乱している。
膝をついてカーペットの端をめくり、花瓶をひっくり返してまで必死に何かを探していた。
「騒々しいわね。一体どうしたというの」
応接室の扉が開き、エンディミオンが出てきた。
ベルは主の姿を認めるなり、その場にぺたりとへたり込み、声を上げて泣きじゃくった。
「お、お嬢さま。申し訳ございません。私……お嬢さまからいただいた『青いリボン』を、どこかに落としてしまったようなのです」
「青いリボン?」
「はい……。深い夜空のような青色、ベルベットのリボンです。私がこの館に来たばかりの頃、お嬢さまが私の髪に結んでくださった一番の宝物なのです」
ベルの説明に、エンディミオンはしばし瞠目した。
青いリボンと言われても、何のことなのかわからない。
エンディミオンの記憶自体が、深い霧の底に沈んだように曖昧だった。ベルに、いつ、どのような理由で、リボンを与えたのか思い出せない。
しかし「深い夜空のような青色」という響きは、胸の奥に奇妙な痛みを走らせた。
「おや。それは一大事ですね」
二人の話を聞いていたのか、バロウズが大真面目な顔で言った。
「私がすぐに、代わりのシルクリボンを用意しましょう」
「違うんです、バロウズさま。代わりじゃだめなんです。あのリボンじゃなきゃ、私は……!」
ベルは喉が裂けんばかりに叫び、再び身をよじらせて泣く。
エンディミオンはしゃがみ込むと、ベルの濡れた頬をそっと拭った。
「泣かないで、ベル」
普段の彼女からは考えられない優しい声がした。
「失せもの、何なりとお探しいたします」
エンディミオンは、自らの決まり文句を子守唄のように紡いだ。
「ただし。何が見つかりましても……なんてね」
ヴェールの奥で、少女は幻のように微笑んだ。
「あなたが恨むようなことは何もないわ。私がリボンを見つけてあげる」
「お、お嬢さま……?」
「バロウズ。あなたはベルと一緒に館を探して。私は庭を回るわ」
「お待ちください、お嬢さま」
バロウズが、鋭い声で行きかけた主を制止した。
「外はひどい冷え込みですし、庭の奥は薔薇の茨が伸び放題です。無闇に歩き回れば、あなたさまのドレスや肌を傷つけてしまいます。ここは私にお任せを」
「いいえ。私が行くわ」
エンディミオンの声には、有無を言わさぬ響きがあった。
感情と記憶を失っている彼女が「ベルの遺失物」に対して抱いた、説明のつかない焦燥の現れなのかもしれなかった。
館の裏庭は、かつては整備された庭園だったが、今は手入れする者もおらず、共同墓地のように寂れていた。
噴水も枯れてしまい、中には小枝や落ち葉が厚く積もっている。
往時は咲き誇っていたであろう薔薇は黒く立ち枯れ、複雑に絡み合っている。
エンディミオンはドレスの裾が汚れるのも厭わず、枯れ木と茨の海を一人、黙々と歩き回った。
「どこ? どこにあるの?」
冷たい風が、彼女の薄金の髪を揺らす。
幾度目かに立ち止まって目を凝らしたその時、視界の端で何かが翻った気がした。
密に絡み合った茨の茂みの中心。
そこに息絶えた一羽の青い蝶のような、ベルベットのリボンが引っかかっている。
おそらくはベルが庭に出た際、強い風にあおられて茨の奥深くまで飛ばされてしまったのだろう。リボンは端のほうが少し破れ、擦り切れていた。
「あった」
エンディミオンは、迷うことなく棘の茂みへ腕を差し込んだ。鋭い茨が容赦なく服の袖を裂き、肌に幾筋もの赤い線を引く。指先と腕に鋭い痛みが走り、鮮血が滴り落ちた。
彼女は顔をしかめもせず、深い青色のリボンを掴み取った。
「見つけたわよ、ベル」
エンディミオンは、リボンを胸に抱きしめるようにして足早に館へ引き返した。




