第19話 魔女の呪いと失われた名前【後編】
「魔女殿、あなたは人間の『名前』を喰らうことで永い時を生きている。あの青年の名前も、器が消えれば極上のワインに仕上がるとお考えのようだ」
バロウズは長い腕を伸ばし、吊るされた小瓶の一つを弾いた。チリンと鈴のような音が鳴る。
「当たり前だ。アタシはそうやって生きてきたんだからね」
「通常の名前なら問題ないでしょう。しかし、先日の青年はそうではない。実は呪いがかかっていましてね」
「呪い……?」
バロウズの瞳が、優雅に細められた。
「器が消滅した瞬間、名前は極上のワインではなく、所有する者を内側から食い破る猛毒へ変わる。……ワインを飲んだあなたは、全身を内側から腐らせて死ぬことになる」
「なっ……!」
「嘘だと思うのなら、このままで結構ですよ。お嬢さま、帰りましょう。依頼人は助かりませんが、この醜い魔女が自滅する様を見届けるのもまた一興です」
バロウズがくるりと踵を返そうとした瞬間だった。
「ま、待ちなッ!」
魔女は悲鳴を上げた。
洞の陰の小さな枝に結び付けていた小瓶を引き毟るように外した。
中には、淡い水色の光が弱々しく明滅している。
「持っていきな。アタシのワインを台無しにする呪いをかけたのもあんただろうに。こんな不良品はいらないよ」
魔女は震える手で、小瓶をバロウズへ放り投げた。
バロウズは弧を描いたそれを受け止め、恭しく一礼した。
「賢明なご判断ですね。感謝いたします」
森を後にする道すがら、エンディミオンは言った。
「見え透いた嘘ね。青年の名前に、猛毒に変わる呪いを仕込んだなんて」
「ええ、嘘ですとも。ですが、どうも私には別の信用があるようでして。残念なことに」
まったく残念とは思っていない顔で、バロウズは大仰に嘆いてみせた。
「別の信用とは?」
「さあ……? 魔女の世界の情報網には疎いもので。欲深く臆病な者ほど、強大な力に過敏になります。血を流さずに済んだのですから、よしとしましょう」
バロウズは悪びれる様子もなく冷笑した。
エンディミオンは、小瓶の中で消えかかっている水色の光を見つめた。
「急がないと。この光……彼に残された時間は……もう」
館に戻った二人が扉を開けた時、応接室には奇妙な静寂が満ちていた。
暖炉の火は赤々と燃えているが、部屋の空気は墓場のように冷え切っている。
「お嬢さまですか。お帰りなさいませ。お茶を準備いたしました」
留守番をしていたベルが、ひょこりと顔を出した。
彼女の手には銀のトレイがあり、茶器と茶の入ったティーカップが二つ並んでいた。
「ベル。……依頼人は?」
エンディミオンが嫌な予感を覚えながら尋ねる。
ベルはきょとんとした顔で不思議そうに言った。
「依頼人……ですか? 本日はどなたもいらしてませんよ」
エンディミオンはベルの顔をまじまじと見た。
「おかしなことを言うのね。私が森へ向かう前、そこの椅子に客人が座っていたはずよ。彼にお茶を出したのはあなたでしょう」
「え……?」
ベルは、自らが持つ「二人分のティーカップ」を見つめ、ひどく混乱したように眉を寄せた。
「本当ですね。どうして二人分淹れてしまったんだろう……。ごめんなさい。私、何か勘違いしていたみたいです」
縮こまるベルの背後には誰もいない。青年の姿はおろか、彼が椅子に座っていたという痕跡すらない。
エンディミオンは無言で悟った。
……間に合わなかったのだ。
彼がこの世界から「消滅」したことで、彼に関わるすべての因果律が書き換えられた。
ベルの記憶からも「彼が依頼に来た」という事実が消え去り「なぜかお茶を余分に淹れてしまった」という矛盾した結果だけが残った。
エンディミオンは、ガラスの小瓶を目の高さに持ち上げた。
小瓶の中の淡い水色の光はすでに消えている。
「……皮肉なものですね」
バロウズが、誰もいない椅子を見つめながら言った。
「失せものは見つかった。しかし、それを受け取るべき『器』が、この世界から跡形もなく消え去ってしまった。いや、器がないから名が消えたのではなく、名が消えたから器も消滅したのか。どちらが先でも結果は同じですが」
「あなたは嬉しそうね」
エンディミオンの皮肉に、バロウズは心外とばかりに肩を竦めてみせた。
「とんでもない。今や、彼の存在を知るのは、お嬢さまと私だけとなりました。神のみぞ知る、どころではありません。依頼が徒労に終わって無念ですよ」
「……」
エンディミオンはガラスの小瓶を強く握りしめた。
胸元のジェットのブローチが、今は重苦しい。
感情を失ったはずの彼女の内に、何か得体の知れない感傷めいたものが押し寄せてくる。
「……遅かった」
誰もいない虚空に向かって呼びかける。
「あなたの探しものを見つけ出したのに」
エンディミオンは、テーブルの上に小瓶を置いた。
失せもの、何なりとお探しいたします。ただし――。
「……あなたは私を恨むことすらできないのね」
エンディミオンの嘆息が、冷えた空気にゆるゆると溶けていった。




