第18話 魔女の呪いと失われた名前【前編】
その日、黒百合の館の応接室に音もなく通された「それ」は、真っ当な人間と呼べる状態になかった。
「ひどく薄弱な存在ね。まるで、水溜りに落ちた水彩画のよう」
エンディミオンは漆黒の扇で口元を隠し、「それ」を見つめた。
彼女の魔を孕む銀色の瞳に、向かいの椅子に座るものはどう映っているのか。
かろうじて青年だとわかる程度の影は、上から下まで薄ぼんやりとして、向こう側の壁の模様が透けて見えるほど輪郭がぼやけている。
光を失った瞳、色素の抜け落ちた髪。
彼が呼吸をするたびに身体は霧のように散り、また集まっては辛うじて人の形を結ぶ。
「……お願いだ、助けてくれ」
青年から発せられた声は、秋の枯れ葉が擦れ合うような空虚な音だった。
「僕の『名前』を探してほしい。僕は名前を取られてしまったんだ……忌まわしい森の魔女に」
「名前、ですか」
傍らに控えるバロウズが憮然とした顔で言った。
「また随分と厄介なものを失ったのですね。名前とは、魂をこの物質界に繋ぎ止めるための最大の『楔』。それを失えばどうなるか。あなたの消えかかった身体が、雄弁に物語っていますが」
「あ、ああ……」
青年は、透けた両手で頭を抱えた。
「違うんだ。僕は森で迷ったあの日、老婆に道を尋ねただけなんだ。老婆は親切に道を教えてくれた。去り際に『お前の名を少しだけ貸しておくれ』と言われて……承諾してしまった。森は抜け出ることができたが、その直後から僕はおかしくなった。老婆は悪辣な魔女だったんだ」
名前を失ってしまった青年は、世界から認識されなくなってしまった。
家に帰れば、母は彼を「見知らぬ不審者」として追い出し、愛を誓ったはずの恋人は彼を見て「どちらさまでしょう」と冷たく言った。
奪われてしまった以上は、誰も彼の名を呼ぶことができないし、彼を記憶に留めることもできない。
そして、世界から「彼を示す記号」が消滅したことで、肉体そのものが消え去ろうとしている。
「もう……限界だ。頭はぼんやりとするし、手足の指先は感覚がない。今日明日にも、僕は消滅してしまう。だから、どうか……僕の名前を……!」
懇願する青年の姿は、エンディミオンたちが瞬きをする間にも薄れ、今にも霧散しそうだ。
エンディミオンは時間がないことを悟り、すっくと立ち上がった。
「失せもの、何なりとお探しいたします。……あなたを世界に繋ぎ止める楔を」
エンディミオンは、青年の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「ただし、私が見つけて戻るまで……あなたが『器』を保っていられればよいのだけど」
青年の瞳に、かすかな希望が灯る。彼は声を発さず、深く祈るように頭を垂れた。
その日の夕方。
灰璃の郊外に広がる、青年が迷い込んだという茨の森にエンディミオンたちは入った。
腐葉土と果実が混ざって発酵したような甘ったるい匂いが立ち込めている。
エンディミオンは獣道を早足で歩く。背後には、ランタンを掲げたバロウズが従っている。
「……悪趣味な森。木々の枝が罪人の腕のように絡み合っているわ」
忌々しそうにエンディミオンが呟いた。
「ええ。名前を喰らう魔女の棲家としては、上等な舞台かと」
バロウズもここへは初めて来たのか、辺りを見回しながら言う。
やがて二人の前に、黒く立ち枯れた大樹とその幹にぽっかりと空いた洞が現れた。
その入り口の枝には、無数の「ガラスの小瓶」が紐で吊るされていた。中には、青や赤、黄金色に発光するガスのようなものが入っている。
「ああ、これですね」とバロウズが小瓶を指差しながら言った。
「この気体が、人間から奪い取った名前でしょう」
「依頼人の小瓶はどれかしら」エンディミオンは小瓶に触れた。
「それは魔女でないとわからないですね」
二人の声を聞きつけたのか、洞の奥で何かが動いた。
ボロ布を纏った醜悪な老婆――魔女が、奇怪な音をたてて蜘蛛のように這い出してきた。皺に埋もれた彼女の目は、強欲に濁っている。
エンディミオンの姿を、じろじろと舐め回すように見つめた。
それから、バロウズに視線を移すとハッと息を呑んだ。
気を取り直すように咳払いをし、キンキンとした耳障りな声を発した。
「ヒヒヒ……どうしたんだい。美しい傀儡とその旦那」
「違いますよ」とバロウズはやんわり否定した。
「お嬢さまが私の主です」
「そんなわけはないだろう。この娘は人間じゃないか」
「色々と事情がありましてね」
「……そうかい。じゃあ、そういうことにしておこうかね」
魔女はくつくつと意味深に笑った。
「アタシの家に何の用だい。迷い子かい?」
魔女の問いかけにエンディミオンが答える。
「違う。人探しならぬ、名前を探しに来たの。先日、あなたが森に迷い込んだ青年から騙し取った名前。それを返してもらいにきたわ」
魔女は大袈裟に目を見張った。
「ヒヒッ! 返すって? アタシの可愛いコレクションをかい? 冗談はやめておくれよ。あの若者の名前はなかなかに美味そうでねぇ。今夜あたりに命が尽きれば、極上の甘口ワインに仕上がるはずさ」
「そう。喰らうつもりなのね」
「当然だろう。アタシの大事な食事だよ」
「……つまり、交渉の余地はないということかしら」
エンディミオンが振り返ると、待っていたようにバロウズが一歩前へ出た。
その不敵極まる顔は、凶悪な愉悦に歪んでいる。
暴力的かつ冒涜的な気配が、一気に膨れ上がった。
「ヒッ……な、なんだね。お前さんはまさか」
魔女が恐怖に顔を引き攣らせて後ずさる。
「なぜだ。なぜこんな小娘の味方をするんだい。あんたは、こちら側のはずだろうが」
「何のことでしょうか」
バロウズは薄笑いを浮かべ、軽く首を傾げた。
「私は下僕としてお嬢さまの命に従うまで。力ずくで奪い取っても構わないのですが……お嬢さまのドレスに返り血が飛んでしまうかもしれない。今時の魔女の血はヘドロじみて落ちにくいと聞きますしね。できれば話し合いで解決したいものですが」
「話し合い……ね」
エンディミオンが呆れたように呟く。




