第17話 生きるために脱走した兵士の勇気【後編】
処刑の朝にふさわしい凍てつくような氷雨が降っていた。
監獄の中庭、灰色の高い壁に囲まれた処刑場では、六人の兵士が無機質な眼差しでライフルを構えていた。
牢から出された青年は、恐怖のあまり自力で歩くこともできず、看守に両脇を抱えられていた。
顔は死人のように青ざめ、全身が痙攣したようにガタガタと震えている。
「執行の準備を」
指揮官の声が響き、兵士は柱に縛り付けられた。
足腰が抜けて立っていられないのを、縄と鎖で厳重に固定する。
布で目隠しをされそうになったその時である。
「待ちなさい」
凜とした声が中庭に響き渡った。
軍人たちが一斉に振り返る。
そこには黒い傘を差しかけられ、ドレスを纏った少女――エンディミオンが立っていた。傘を持つのは戦地から戻ってきた執事だった。
「民間人がなぜこんなところに? つまみ出せ!」
指揮官が怒鳴る。
しかし、バロウズが人間離れした殺気を放つと、彼らは目に見えない網にかかったようにその場から一歩も動けなくなった。
「か、身体が動かない」
「馬鹿な、どういうことだ」
男たちの間に、著しい困惑が広がる。
エンディミオンは、雨でぬかるむ中庭をゆっくりと進んだ。柱に縛り付けられた青年の前で足を止めると、彼女はその眼前に細い紐のようなものを差し出した。
それは、泥こそ軽く拭き取られているものの、乾いた血がこびりついたままの組み紐だった。
「あ……」
青年の目が見開かれる。
「戦場の片隅で拾ったわ。これがあなたの落としてしまった『勇気』よ」
エンディミオンは、青年の震える手に組み紐をしっかりと握らせた。
粗末な木綿の感触。
出征する朝、妹が泣きながら彼の手首に結びつけてくれた時の記憶が鮮明に蘇る。
……そうだった。自分は妹を一人にしたくないばかりに、死を恐れたのだ。
今ここで、自分が無様に死ねば、妹も汚名を着せられてしまう。
たとえ虚像であろうとも、彼女が伝え聞く兄の最期は、勇敢かつ潔いものでなければならない。
「……くっ」
青年が歯を食いしばり、組み紐を握りしめた瞬間。
彼の震えていた全身がピタリと止まった。
青ざめていた顔に生気が宿り、瞳には揺るぎない光が満ちていく。
それを見届けたエンディミオンがバロウズに目配せすると、軍人たちを捕らえていた見えない呪縛が解けた。
唐突に身体の自由を取り戻し、戸惑う看守たち。
青年は彼らに向かって深呼吸をすると、静かに言った。
「目隠しはいりません」
その声に、先程までの恐怖や動揺は微塵もなかった。
柱に背筋を伸ばして立つ姿は堂々としており、顔には晴れやかな笑みすら浮かんでいる。
看守たちは、その信じがたい変貌ぶりに息を呑んだ。
指揮官はいささか呆然としながらも、手を高く振り上げた。
「構え!」
六丁のライフルが、青年へ向けられる。
「……撃てッ!」
耳をつんざく轟音。硝煙が氷雨の中に散り、六発の銃弾が青年の胸を正確に貫いた。
彼は一度だけ天を仰ぐと、微笑みを崩すことなく、がくりと項垂れた。
血に染まり、柱に縛り付けられたまま事切れたその姿は、「逃げ出した卑怯な脱走兵」ではなかった。
バロウズが感心したように呟く。
「人間の心とは、本当に不思議なものです。一本の粗末な紐が、死への恐怖を消し去ってしまうとは」
エンディミオンは戻った傘の下、表情を変えることなく亡骸を見つめた。
「何も変わらないわ。恩給は出ないし、妹は孤児院行きよ。……ただ『臆病者の妹』という石を投げられなくなっただけの、安い自己満足ね」
すげなく言うと踵を返した。
濡れた石畳を打つ靴音が、単調な鎮魂歌のように響く。
「自らを貫く銃弾を前にして、微塵も恐怖を感じず、笑って立ち尽くす。もし、それが勇気なのだとしたら」
エンディミオンは足を止め、冷たい灰色の空を見上げた。
「勇気とは……死を受け入れるために心が用意する麻酔に過ぎないのでは?」
誰も答える者はいない。執事は黙ったまま、主の背中に傘を傾けるばかりだった。




