第16話 生きるために脱走した兵士の勇気【前編】
灰璃の空を覆う鈍色の雲は、神がこの街を見捨てた証のように、重く低く垂れ込めていた。
郊外の河畔に建つ石造りの軍事監獄。
光すらも届かない地下の廊下を、かすかな衣擦れの音が通り抜ける。
「ひどい場所ね。血と汚物の匂いしかしないわ」
廊下の突き当たりの地下牢で足を止めたのは、この場所には不釣り合いなドレスに身を包んだ少女であった。
ヴェールの奥の無表情な顔が、牢内の藁の上にうずくまる人影を見下ろす。
その後ろには、ランプを掲げたバロウズが付き従っていた。
「あなたが私を呼んだのね。脱走兵さん」
エンディミオンの呼びかけに、藁の上の青年が顔を上げた。
泥と血に塗れ、捕縛された時に暴行されたのか生々しい傷が残るその顔は、あどけなさすら残る若い兵士のものだった。
「あ、ああ……来てくれたのか。黒百合の館の……」
兵士は鉄格子に縋り付くようにして、震える手を伸ばした。
「どうか……探してほしい。僕が激戦地に落としてきてしまったものを。僕の……『前へ進む勇気』を!」
彼の歯の根は合わず、カチカチと惨めな音を立てている。
「勇気、ね」
エンディミオンは呆れたように続けた。
「あなたは前線の兵士でありながら、あなたを庇って撃たれた仲間を見捨てて遁走した。人でなしの臆病者と聞いたけれど。それなのに今更、何の勇気が必要なの? どうせ明後日には処刑される運命なのに」
脱走の罪は例外なく死刑である。
戦地で死ねば名誉の殉職となり、遺族には年金が支給される。逃げれば罪人として処刑され、いかなる恩給も受けられない。結果は同じだが、死者の扱いはだいぶ違ってくる。
冷酷な事実を突きつけられ、青年は嗚咽を漏らした。
「僕は……死にたくなかった。故郷には僕の帰りを待つ妹がいるんだ。僕が死ねば、マリンは孤児院へ送られてしまう。だからなんとしても生きて帰りたかった。砲弾の雨の中、仲間が次々と倒れていくのを見て……恐怖に耐えきれず……」
床に顔を擦り付けんばかりにして泣き崩れる。
生きるための決死の逃亡。だが、彼を待っていたのは後方の督戦隊による捕縛と、逃亡兵に対する暴行、「敵前逃亡の卑怯者」という消えない烙印であった。
「……でも、このままじゃだめだ。僕が臆病者として処刑されれば、妹は世間から石を投げられ続ける。それだけは嫌だ」
青年は、血走った目でエンディミオンを見上げた。
そこには、死の恐怖を凌駕する一つの純粋な願いが宿っていた。
「せめて最期は、名誉ある帝国軍人として死にたい。胸を張って銃殺隊の前に立ちたいんだ。お願いだ、僕の失われた『勇気』を見つけてくれ」
痛切な叫びが、地下牢の湿った壁に反響する。
バロウズがシニカルな笑いを浮かべる。
「生きたくて逃げ出したのに、今度は立派に死ぬための勇気が欲しいということですか。人間は実にころころと望みが変わる。脱走するにも勇気が必要だったのでは? それはどこへ消え失せたのでしょう」
エンディミオンは観察者の凪いだ眼差しで、這いつくばる青年を眺めた。
「いいでしょう」
少女は厳かに告げた。
「あなたの望むものを見つけ出してあげる」
扇の先で死を待つ青年の額をそっと指した。
「……ただし。あなたの結末は覆らない。妹の運命もね。何が見つかりましても」
「恨みません……ッ!」
青年は彼女の言葉を遮った。
「兄として妹の誇りでありたい。それだけなんです」
エンディミオンは目を伏せると、無言のまま踵を返した。
十数時間後、隣国・蘇格蘭との国境付近。
帝国は陸続きの隣国と百年単位で戦争を続けており、今も軍事衝突が絶えない。
幾万もの命がすり潰された悲惨な塹壕戦の跡地。
硝煙と死臭、腐敗した肉の匂いが立ち込める中、バロウズは場違いすぎる燕尾服姿で立っていた。
通常の交通手段では辿り着けない距離を、魔の術理で踏破した彼の息は微塵も乱れていない。
辺りを歩き回りつつ、ひとりごちる。
「この泥土の中から、一個人の想念を拾い上げるなど、砂漠で一粒の砂金を探すようなもの。だが……」
バロウズの指が、地面の泥の中へ突き入れられる。
「私にわからないものはない。過去のことは全て『書いてある』のでね」
少しして彼が地中から引きずり出したのは、泥と黒ずんだ血潮にまみれた一本の「組み紐」であった。
店に売られているものではない。
糸はゆがんで不格好であり、子供が編んだと一目でわかる粗末な木綿の紐だった。
「『絶対に生きて帰る』という生への執着……妹への愛。これこそが、彼が戦場から逃げた最大の理由。同時に、彼を奮い立たせた『勇気』の証であったはず」
バロウズは、泥だらけの組み紐を純白のハンカチで包み込んだ。
「さあ、お届けにあがりましょう。死にゆく哀れな小羊のために最期の装飾品を」




