第15話 永遠の命を得た男が乞い願う死【後編】
翌日の夜。
使いの報せを受けて再び館を訪れた男は、バロウズがゴルゴンの毒を差し出すなり、引ったくるようにして受け取った。
震える両手でそれを高く掲げた。
「ああ……! これか。これでようやく終わる。永遠の苦痛から解放される。ありがたい!」
男の濁った目から、歓喜の涙と黄ばんだ体液がこぼれ落ちる。
「一息に飲み干してください。そうすれば、毒があなたの時間を完全に停止させます」
バロウズが恭しい声音で促した。
男は迷うことなく小瓶の栓を引き抜き、黒く粘つく泥のような猛毒を喉の奥へ一気に流し込んだ。
ゴクリと、ひどく重たい音が応接室に響き渡る。
その直後だった。
「おお……おおおおっ!」
男は感動に目を見開き、自身の両手を見つめた。
「痛みが、あの狂おしい肉の軋みが消えていく……? いや、違う。身体が冷たく、泥のように重くなっていくんだ。指先が、足先も……感覚を失ってゆく。ああ、なんという幸福だ。ようやく死神が迎えに来てくれた。私の命がようやく終わりを……」
安寧が訪れることを信じながら、男は床に倒れ込んだ。仰向けに転がると、恍惚とした表情で天井を見つめた。
彼の肉体を覆う包帯、それに滲む黒い体液の排出が止まる。
腐りかけた肌はみるみるうちに灰色に変色し、岩石か泥の塊のように硬直していった。
「ありがとう。本当にありがとう。これでやっと眠れ……」
男の声が、そこでピタリと止まった。彼の声帯が、肺が、心臓が完全に停止したのだった。肉体は、物言わぬ泥の像となった。
ベルが、恐る恐る男の顔を覗き込む。
「この方は安らかになれたのでしょうか」
同じように見下ろしながら、バロウズはその顔に極上の笑みを浮かべた。
「ええ。人魚の肉による『再生』は停止しました。……肉体の再生は、ね」
エンディミオンは長椅子から立ち上がり、男の側へ歩み寄った。
しゃがみこむと、彫像と化した男の顔をひっそりと見つめる。
男の体は一切動かない。
眼球すら一ミリも動かすことはできない。
だが――その濁った瞳の奥底に、死の錯覚から引き剥がされたことによる爆発的な恐怖と絶望が浮かび上がったのを、彼女は確かに見届けた。
「……聞こえているわね」
エンディミオンの声には、かすかな諦念と憐れみが入り混じっている。
バロウズが冷徹に観察しつつ答える。
「冥界の泥は、肉体の時間を永遠に停止させます。ですが、人魚の呪いは肉体ではなく『魂』そのものに根付いている。なるほど、ゴルゴンの毒は肉の器を停止させても、魂までは殺せないのですね。勉強になります」
「魂から呪いを引きはがすことができない……ということね」
「えっ?」
ベルが息を呑む。
「おわかりですか、依頼人殿」
バロウズがほくそ笑みながら、男に無慈悲な事実を突きつける。
「あなたは肉体的には死んだ。もうまぶたを閉じることも、声をあげることもできない。しかし、精神は死ぬ間際の明晰な状態のまま保たれています。脳の動きも停止しましたので、この先狂って自我を失うという逃げ道もありません。しかもあなたの魂には、肉体が停止した瞬間の『全身が腐り落ちる激痛』が固定されている。あなたはこの先、何百年、何千年と……硬直した肉体という牢獄の中で生前の苦痛を味わい続けるのです」
男の眼球の奥に、声にならない絶叫がほとばしる。
『嘘だ。違う。こんなはずでは……。なんだそれは。ふざけるな。きちんと殺してくれ。だめだ。動けない。痛い。痛い! ひどい。あんまりじゃないか。頼む。私をここから出してくれ、殺してくれぇぇっ!』
声が聞こえているのか、バロウズが語りかける。
「おや、ここを出てどこへ行くのですか。あなたは稀代の冒険家、世界のありとあらゆるところを探検しつくしたはずでしょう。そろそろ一箇所に落ち着かれた方がいいのでは」
いくら抗議したくとも叫びたくとも、男の喉はピクリとも動かない。狂乱の悲鳴は、彼自身の閉ざされた意識の中で永遠に反響し続けるのみだった。
バロウズは男の身体を掴むと、羽根のように軽々と持ち上げた。
「郊外に、古い地下墓地がございます。そこに丁重に埋葬して差し上げましょう。とても静かでよいところですよ。きっとご満足いただけるはず」
男は生きてはいないが、死んでもいない状態で、地中に埋められることになった。
「……ヒッ」
想像したベルは両手で口を覆い、身体をぶるりと震わせた。
運ばれてゆく男はぴくりとも動かなかったが、エンディミオンは自身に刺さる声なき怨嗟を感じた。
だが、彼女は男の抗議を黙殺した。
自らの業は、自ら背負うしかないと知っている。
……いつ、いかなる時にそれを知ったのかは思い出せない。
男が連れ去られると、応接室には鼻をつくような腐臭のみが残った。
あれも彼の生の証だったのだろうかと、エンディミオンは思った。




