第14話 永遠の命を得た男が乞い願う死【前編】
その日、黒百合の館の応接室は、吐き気を催すほどの濃密な腐臭に満ちていた。
「ひどい匂い。最高級の乳香や没薬(ミルラ)をどれほど焚き込めようと、あなたの肉体から漏れ出る匂いは隠しきれないわ」
エンディミオンは、たまらずハンカチで鼻を押さえながら言った。ヴェールに隠された目でさえも、チカチカして痛いくらいだ。
彼女の眼前に立つのは、異様な姿の男である。
仕立ての良い最高級のフロックコートを羽織り、指先には眩いばかりの大きな宝石をあしらった指輪をはめている。
しかし、その顔も首も手首も、肌が露出するあらゆる部分が、どす黒い染みの浮かんだ包帯で巻かれていた。
包帯の隙間からは、絶えず黄ばんだ体液が滲み出し、動くたびに骨と肉が軋むような湿った音が響く。
「お許しいただきたい、美しいお嬢さん。私の身体は何百年も前からこうして腐り続けているのです」
男の口から漏れたのは、擦り切れた羊皮紙のような掠れた声だった。
傍らに控えたベルが、その痛々しい姿と異臭に後ずさりする。
「何百年……? 冗談でしょう?」
男は包帯の奥にある黄色く濁った眼球をぎょろりと動かした。
「冗談であれば、どれほどよかったか……。私は若き日、大航海時代と呼ばれたあの熱狂の最中、東の海の果てで禁断の『人魚の肉』を喰らったのです。永遠の若さと命を求めてね」
男は、自らの両手を強く握りしめた。
「確かに私の命は永遠となった。どんな傷を負おうと、首を落とされようと、肉体は必ず再生し死ぬことはない。……だがこの呪われた肉は『若さ』を保ってはくれなかった。細胞は老い、腐敗し、崩れ落ちる。それを人魚の呪いが無理矢理に繋ぎ止めて再生させる。何百年もの間、私は老いさらばえた肉体が腐り落ちる激痛と、終わることなく再生する苦痛を味わい続けているのです」
血を吐くような叫びが、応接室の空気を震わせる。
腐敗と激痛。決して終わることのない無間地獄に男は落ちてしまったのだ。
彼は世界中を巡って莫大な富を築いたが、今その金で得られるのは自らの腐肉を隠すための香水と絹の包帯だけだった。
「だから……私に『死』を探していただきたい」
男は絨毯の上に膝をつくと這い寄り、エンディミオンの黒い靴の先へ顔を擦りつけんばかりに懇願した。
「どうか、命を終わらせるための確実な『死』を。金ならいくらでも払う。頼む、私をこの地獄から解放してくれ」
エンディミオンは足元で啜り泣く男を見下ろし、じっと観察した。
永遠の命。人類が古来より渇望してやまない夢の正体が、これほどまでに醜悪で惨めな泥濘であったとは。
「よろしい」
エンディミオンは、ドレスの裾を翻して立ち上がった。
一切の温度を持たない声が響く。
「失せもの、何なりとお探しいたします。あなたの望む、永遠の安息を……」
少女の顔は沈痛そのものだった。自らの意思で禁忌に触れた人間に対しても憐憫が滲んでいる。
どこか他人事とは思えない峻厳な気持ちがあった。
「ただし、あなたの探している『死』が、あなたが想像するような眠りであるかどうか……。何が見つかりましてもお恨みなさいませぬよう」
男は顔を上げると歓喜に咽び泣いた。
「誰が恨むものですか。これでやっと眠れるのですから」
数日後の深夜。
館の地下にある書庫に、エンディミオンは執事といた。
数百年分の埃と羊皮紙の匂いが充満するその空間でバロウズは、分厚い魔導書のページを捲る。
あるページで彼は手を止めた。食い入るようにページに目を通すと、主に振り返って言った。
「ありましたよ、お嬢さま。東洋の古文書『海魔異聞検閲録』の外伝、禁章の最後に。人魚の呪いを打ち破る唯一の手段が」
エンディミオンはアンティークの椅子に浅く腰掛け、バロウズが持ってきた本を眺めた。
「どんな方法なの? 灼熱の太陽の光に炙られる? それとも心臓に聖なる銀の杭でも打ち込むのかしら」
「そんなことをしても無駄です。人魚の再生能力は、生命の源である『水』の力。呪いを断つには、大地の奥底……冥界の門より湧き出る『澱みの泥』ゴルゴンの毒を用いるしかありません。すべての細胞の時間を強制的に停止させ、命の流転を断ち切る猛毒です」
「そんなものを用意できるの?」
バロウズは傲岸に鼻を鳴らした。
「お嬢さまは私をなんだとお思いで?」
「我が家の執事ではないの?」
「それはそうですが。奇品蒐集は私のささやかな趣味。人魚の呪いに効くとは知りませんでしたが、ゴルゴンの毒そのものはコレクションとして所持しておりますよ」
バロウズは苦笑しながら、虚空に指を滑らせた。
ピアノの鍵盤を叩くような、あるいは書架を探るような繊細な動きをし、しばらくして小瓶のようなものを取り出した。
瓶には、光を一切含まない粘り気のある黒い液体が入っていた。
「毒は毒ですが。依頼人にとってこれは救済となるのか、それとも……」
バロウズの唇に、酷薄でサディスティックな笑みが浮かぶ。
エンディミオンは当然のように言った。
「私たちがすることは変わらないわ。依頼されたものを見つけ出して渡す。それだけよ」




