第13話 執事の消えたティーカップと少々のゴミ
その日の朝、館の内部では、通常ならありえない異変が起きていた。
「おかしいですね」
完璧に磨き上げられた銀のティーセットが並ぶ厨房で、バロウズは困惑気味に呟いた。
彼の指先は食器棚を探るが、虚しく空を切るばかり。
「バロウズさま、どうかなさいましたか」
入ってきたベルが声をかける。
栗色の髪が、厨房に差し込む光を受けて輝く。
狂気と死の匂いが染み付いた館において、彼女は生者の温かさを放っていた。
「実は少々困ったことになりましてね」
バロウズは振り返ると、大袈裟に両手を広げてみせた。
「愛用しているティーカップが見当たらないのです。漆黒のウェッジウッド、内側に薄く金彩が施されたアンティークのカップです」
「まあ! いつもお仕事の合間に紅茶を召し上がっている薄くて綺麗なカップですか。バロウズさまが物をなくされるなんて、雪が下から上に降るくらい珍しいですね」
ベルは目を丸くして驚いた。
彼女の言う通り、この執事は館にあるすべての物品の位置や数、使用回数に至るまで完璧に把握している。
彼が失せものを出すなど、あり得ないことだった。
「ええ、お恥ずかしい限りです。お嬢さまがお目覚めになる前に一服楽しもうと思ったのですが……完全に失念してしまいまして」
「きっとどこかに置き忘れただけですよ。一緒に探しましょう」
かくして、黒百合の館を舞台にした奇妙な「失せもの探し」が始まったのである。
二人は厨房を経て、書庫を探索した。
天井まで届く本棚には、稀覯本や今は使われていない古代文字で綴られた書物がぎっしりと詰め込まれ、羊皮紙とカビの匂いが充満している。
ベルが梯子を登り、棚の隙間を逐一覗き込んだがカップは見当たらない。
続いて、枯れかけた毒草や食虫植物が鬱蒼と茂る温室に入った。
さらに滅多に使われることのない豪華なダイニングルームも回る。
「うーん、見当たりませんね」
ベルは、額の汗を拭いながら首を捻った。
「バロウズさま、最後にあのカップを使われたのはいつですか」
「最後に……ですか」
バロウズは顎に手を当て、双眸を細めた。
彼の記憶は、ほんの十数時間前へ手繰り寄せられる。
そういえば、昨夜は少々館の周辺が騒がしかった。
深夜、主であるエンディミオンが寝室で眠りについた頃。
館の厳重な鉄柵を乗り越え、外側の階段を降り、地下室の窓を破って侵入してきた「招かれざる客」たちがいた。
手に得物を持った五人の粗野な男たち。
彼らは倫敦の裏社会を荒らし回る凶悪な強盗団であり、最近では地方にも進出していた。
「丘の上の黒百合の館には、宝飾品や珍しい本が眠っている」という噂を聞きつけて、乗り込んできたのである。
『あそこには若い女とひょろっちい執事しかいねえって話だ』
『女か。金目の物は根こそぎ頂いて、ついでにいい思いもさせてもらおうぜ』
薄汚い欲望を剥き出しにした侵入者に対して、執事は即座に「おもてなし」に向かった。
そしてバロウズの人間離れした膂力と残虐な手腕に、男たちは悲鳴をあげる間もなくひねり潰された。
五人を全滅させた後、バロウズは命乞いも虚しく息絶えたリーダー格の男の頭を台座代わりにし、その上に漆黒のウェッジウッドをちょこんと載せた。
優雅に紅茶を注ぐと、凄惨な現場の中で最後の一滴まで飲み干した。
害虫駆除の達成感から、お気に入りのカップの置き場所を失念してしまったのだ。
「ああ、思い当たる場所がありました」
バロウズの唇の端がつり上がった。
「地下のワインセラーの在庫を確認しに行った際、そのまま置いてきてしまったようです。ベル、あなたはここでお嬢さまの朝食の準備を進めてください。取りに行ってきます」
「はい、わかりました」
微笑むベルを置いて、バロウズは厨房を後にした。
彼が向かったのは、館の最下層――冷たく湿った空気が籠もる広大な地下室である。分厚いオーク材の扉を開けると、濃厚な「鉄と臓物」の匂いが鼻腔を突いた。
そこに広がっていたのは、地獄の現出とでも言うべき凄惨な血の海であった。
「まったく私としたことが。カップをこんなところに置き忘れた上、掃除を後回しにするとは……大失態ですね」
バロウズは、赤黒い水たまりを踏みしめる音に顔をしかめた。
部屋の中央には、「人間」と呼ぶことすら憚られる名状しがたい肉と骨の残骸が転がっていた。
ある者は首が百八十度回転し、ある者は自らの肋骨が肺を突き破り、ある者は手足の関節をすべて逆方向にへし折られ、恐怖と絶望に顔を歪ませたまま絶命している。
壁一面には、鮮血が前衛芸術のようなおぞましい模様を描いていた。
バロウズは、その凄惨な死体の山の中心へ歩を進めた。
肉塊の一つ――強盗団のリーダーであった男の見事にひしゃげた頭頂から、漆黒のウェッジウッドのティーカップを持ち上げる。
飲み干した後に放置したため、内側は無事であり、外側に返り血が一滴ついている程度だった。
バロウズは純白のハンカチを取り出すと、カップについた血痕を丁寧に拭き取った。
「美しい。やはりこのカップは手元にあってこそ」
惨殺死体の山に背を向けると、バロウズは鼻歌交じりに歩き出した。
「さて、まずはお嬢さまに極上の紅茶を淹れるのが先決。ゴミどもの始末は、食事が終わってから……」
厨房に戻ったバロウズは、何食わぬ顔で漆黒のカップを熱湯と洗剤で洗浄・消毒し、完璧な艶を取り戻させた。
さらに衣服を素早く真新しいものへと着替え、最適な温度と時間でダージリンを蒸らした。
――数十分後。
館の居間には、起きてきたエンディミオンが座していた。
まだどこか眠たげな顔が、淹れたばかりのダージリンの香りを嗅ぎつける。
「遅れるなんて。あなたにしては珍しい」
エンディミオンの声に、バロウズは深々と頭を下げた。
「申し訳ございません、お嬢さま。『失せもの』の回収と身支度を整えておりました」
バロウズは、純白のクロスが掛けられたテーブルにティーカップを置いた。
漆黒のウェッジウッドとは色違いのエンディミオン専用の白磁のカップである。
エンディミオンは不思議そうに言った。
「あなたが探し物なんて……これまた珍しいこともあるのね。私に依頼すればよかったのに」
少女は薄く笑い、自らの決まり文句を歌うように口にした。
「失せもの、何なりとお探しいたします。ただし……」
「お嬢さまのお手を煩わせるほどのものではありませんよ。もう見つかりましたしね」
「なんだったの?」
「愛用のカップと、ほんの少しのゴミです。お食事が終わりましたら掃除しておきます」
エンディミオンは、彼が言う「ゴミ」が何であるのかなんとなく理解した。
着替えたばかりの燕尾服からかすかに漂う血の匂いを敏感に感じ取ったのだ。
「そう……。ならいいわ」
エンディミオンは、それ以上は何も言わず、白磁のカップを口に運んだ。
「美味しい。あなたが淹れるものは間違いないわね」
「もったいないお言葉にございます、お嬢さま」
バロウズは恭しく一礼した。
廊下からパタパタと軽い足音が聞こえ、ベルが顔を出した。
「バロウズさま。カップは見つかりましたか」
無邪気に尋ねるメイドに、執事は洗浄された漆黒のカップを取り出して見せた。
「ええ。おかげさまで。地下のワインセラーにありましたよ」
「わあ、よかったですね。やっぱりバロウズさまは何でも見つけちゃうんですね」
嬉しそうに手を叩くベルの足の下、地下室に転がる肉塊は静かに焼却の時を待っている。
この館においては、取るに足らない些事なのだった。




