第12話 鏡の中の私、鏡の外のお前【後編】
その夜、「黒百合の館」の応接室。
姿見の中に閉じ込められたセシルは、エンディミオンの言葉を聞いて狂喜した。
「本当ね? 本当にあの泥棒猫を消し去って、私を元の世界に戻してくれるのね」
ドレスの裾をぎゅっと握りしめ、目を爛々と輝かせる。
「ええ。この霊薬と銀の槌を使えば呪いは解けるわ。……けれど」
エンディミオンは、鏡の中の本物をじっと見つめた。
「本当にいいのね?」
「……?」
エンディミオンは、傍らのバロウズに目配せをした。
バロウズが、すっと空間に手をかざす。
姿見の表面が水面のように揺らぎ、現在ローラン伯爵邸で起きている光景が鮮明な映像として映し出された。
居間の暖炉のそば、婚約者である青年エドワードと彼に寄り添う偽物のセシルの姿があった。
エドワードはセシルの手を握り、熱い吐息と共に囁いた。
『セシル……君は本当に変わったね。以前の君は、私の地位や財産ばかりを気にしていた。私自身を見ることはついぞなかった。傲慢で、些細なことで金切り声をあげる君を私は軽蔑していた。実のところ、婚約は破棄したいと考えていた』
エドワードの声が鏡を通して応接室にも響き渡る。
鏡の中のセシルが、ピクリと顔を強張らせた。
『今の君は違う。誰に対しても親切で、家族や使用人を大事にしている。私に対しても……。私はどうやら誤解していたようだ。君がこんなにも美しく、清らかな心を持つ女性だったなんて』
『エドワードさま。私もエドワードさまをお慕いしています……』
セシルは頬を赤らめ、恥ずかしそうに俯いた。
『愛しているよ、セシル。私はもう婚約者でいることに耐えられない。年が明けたら結婚しよう』
セシルはプロポーズに感極まったのか、目に涙を浮かべた。
『嬉しいです。でも、今の我が家では結婚の支度を整えることが……』
『いいんだ。それはこちらで全部用意する。君は身一つで来てくれ。なんだったら私がこちらに住んでもいい。この際、この屋敷も住みやすく改修しよう』
『ああ、それならお父さまやお母さまと離れずに済みます。本当にありがとうございます』
二人は、誰の目にも明らかなほど「真実の愛」で結ばれていた。使用人もセシルの両親も、薄く開いた扉の隙間から二人の様子を温かく見守っている。
誰もが、今の心優しき「虚像」の方を愛していた。
「あっ、ああ……」
鏡の中のセシルが、カタカタと震え出した。
顔から血の気が失せ、両目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「これがあなたの探していた『現実の居場所』よ」
エンディミオンの声が響く。
「あなたは現実へ戻りたい?」
「い……嫌ぁ!」
セシルは両手で顔を覆い、何度も首を振った。
「嫌! 信じられない。こんなの嘘よ。私が戻れば、みんなは私を憎むわ。エドワードさまは私に幻滅して今度こそ捨てられてしまう。我が家は貧乏なままで……そんなの耐えられない。嫌よ、嫌、嫌ぁぁぁっ!」
彼女の叫びは、鏡の世界に虚しくこだました。
自分こそが本物なのに、誰にも愛されていない。必要とされていない。
そのことに気づいてしまった彼女にとって、現実は鏡の檻よりも冷酷無比であった。
「やめて……」
彼女は哀願するように、何度も「やめて」と繰り返した。
「もういい。私は……私はここでいい」
セシルは顔を覆ったままじりじりと後ずさった。
鏡の世界の奥、光の届かない漆黒の闇へ徐々に飲み込まれていく。
「私はここにいる。ここにいるわ。だから、あの人たちの中では、ずっと愛される私でいさせて」
彼女の姿は闇に溶け込んでゆき、やがて完全に輪郭を失った。
チン……と小さな音が響いた。
姿見の中に映っていた「ローラン邸」の景色が消え去り、漆黒のドレスを着た少女と傍に立つ執事の姿だけが映し出される。
エンディミオンは息をつき、ヴェール付きの帽子を脱いだ。鏡に映る自分の姿を見つめた。
青白い顔に瞬く銀色の双眸。
瞳は、この世の如何なる色彩とも隔絶された、冷厳極まる白銀色である。
アルビノの無垢な白とは違う。光を反射することを拒絶し、世界を映し出す意志さえも失ったかのような不透明な輝きをたたえている。
何も知らない人間が覗き込めば、光を失った盲目の徒と疑い、危うい予感を覚えて立ち尽くすことだろう。
白銀一色かと思われた双眸だが、よくよく見れば別のものによって浸食されている。バロウズから注ぎ込まれた魔力が水銀の底を攪拌し、深淵に瑠璃の青を蠢かせている。この世ならざるものが「視える」のは、この白銀に沈む深い青の影響だった。
「失せものは、永遠に失われたようですな」
バロウズは、使われなかった霊薬の小瓶を胸のポケットに仕舞い、嘲るような笑みを浮かべた。
エンディミオンは感慨深げに言った。
「自らの醜さゆえに、虚像に身体を明け渡すとはね」
「そうなるようお嬢さまが仕向けたのでは?」と、執事の意地の悪い声。
「違うわ」
エンディミオンはピシャリと言い捨てた。
「真実を知らないまま現実に戻り、周囲から疎まれる人生を送るのはどうかと思っただけ。現実へ帰るか、虚像に残るか……選んだのは彼女自身よ」
そう嘯きながら、エンディミオンは再び鏡の中に映る自分自身を見つめた。
彼女は思う。
さて、これもまた……何であるのか。
死を悼むかのような黒づくめの姿。
普段はヴェールで隠された感情の抜け落ちた瞳と顔。
自分は、果たして「本物」なのだろうか。それとも誰かが作り出した、都合の良い「虚像」なのだろうか。
エンディミオンは鏡を見据えながら、傍らの男に問う。
「バロウズ。人間は不完全な本物と完璧な偽物、どちらで生きるのが幸せだと思う?」
「さて、私にはわかりかねます。ですが……」
バロウズは主の背後に回り、耳元に低く甘美な声を落とした。
「どちらであろうとも、私はあなたさまの執事であり続けるとお約束いたしますよ。ですからご悲嘆なさいますな」
エンディミオンは短く息を吐いた。
「嘆いてなんか……。私はただ退屈な仕事が終わってホッとしているだけよ」
鏡の向こうの世界に沈んだ少女の魂が、現実に戻ることはない。
そして虚像こそが「本物」となり、みなに愛される幸福な人生を歩む。
アンティークの姿見は、元から幻であったかのように、いつの間にか姿を消していた。




