旧セーレムの幻影
踏み出す一歩ごとに、清潔な大学の廊下がノイズとなって弾け飛ぶ。
壁から剥き出しになる黒い合成樹脂、網膜を焼く赤い監視レーザー。それは、30年前に壊したはずの拷問施設『GEHENNA』の幻影だった。
「これは、あなたが犯した『消去』という名の殺人です」。
汐の静かな宣告と共に、忘却の彼方に沈めたはずの亡霊たちが、審の精神スロットへ牙を剥く。
教室を出た審の足取りは、ひどく危ういものだった。
大学の廊下は、清潔な白のタイルで覆われているはずだった。だが、彼が一歩踏み出すごとに、その白が「ノイズ」となって弾ける。
「……っ、これは……」
審が壁に手をつくと、掌に触れたのは冷たい石膏ではなく、脈打つような熱を持った黒い合成樹脂の感触だった。
視線を上げれば、天井の LED 照明が明滅し、その隙間から、かつての拷問施設『GEHENNA』で見た、網膜を焼くような赤色の監視レーザーが幾重にも交差して現れる。
「逃げられませんよ、先生。ここはあなたの記憶が、この世界の理を上書きしようとしている場所ですから」
背後から、汐の静かな声が響く。彼女は侵食されていく廊下を、まるで見慣れた散歩道であるかのように淡々と歩いてくる。
バキッ、という硬質な破壊音が響いた。
目の前の研究室のドアが、重厚な電磁ロック式のハッチへと姿を変える。
廊下の両側には、いつの間にか透明なカプセルが並んでいた。かつて審が「再調整」の名の下に、人々の魂をデータへと還元するのを黙認し、あるいは自ら実行した、あの沈黙の独房群だ。
「……俺は、この場所を壊したはずだ。恵留と共に、すべてを……!」
「壊したのは物理的な塔だけです」
汐がカプセルの一つを指差す。そこには、老教授の顔をした審自身が、無数のケーブルに繋がれた姿で浮いていた。
「あなたが弥栄さんの記憶を消した時、このGEHENNAの論理を、あなた自身が継承してしまった。……『不都合なデータを消去し、世界を正しく保つ』。それは、ロゴスがやろうとしていたことと同じだとは思いませんか?」
審の心臓が、早鐘を打つ。
廊下の突き当たりから、かつての弥栄の、絶望に染まった叫びが聞こえてくる気がした。
――『ゼン、どうして私の愛を奪うの?』
「俺は……俺は、生きるために、自由になるために、あの螺旋を断ち切るしかなかったんだ!」
「その代償として、あなたは彼女を『虚無』に放り込んだ。……この世界の平和は、先生、あなたが犯した『消去』という名の殺人の上に成り立っているんです」
壁が大きく剥落し、中から無数の光ファイバーが触手のように伸びて、審の脚に絡みつく。
GEHENNAのシステムが、数十年ぶりに主を見つけたとばかりに、彼の神経スロットへアクセスを求めてくる。
激痛。
老教授としての穏やかな意識が、かつての戦士『終』の血生臭い本能に塗り潰されていく。
大学という仮面を剥ぎ取られたGEHENNAの深部で、審は自らが切り捨てた「亡霊」たちの重圧に押し潰されそうになっていた。
「……ああ、そうだ。俺は……俺は救世主なんかじゃない」
審は、自分の右腕に浮かび上がる青い紋章を見つめた。
かつて恵留から授かった、すべてを白紙に戻す力。
それは救いの鍵ではなく、最も残酷な「消しゴム」だった。
「浅野さん……君は、俺を裁きに来たのか?」
汐は審の前に跪き、彼の手を優しく包み込んだ。
彼女の体温だけが、冷徹なGEHENNAの幻影の中で、唯一の「現実」として審を繋ぎ止めていた。
「いいえ。私は、あなたが消し去ったものたちの『汐』を受け取りに来ただけです。……さあ、地下へ行きましょう。大学の図書館の底。そこに、あなたが30年前に封印した、本当の『預言書』が眠っています」
激痛の中、自らの右腕に宿る青い紋章が「最も残酷な消しゴム」だったと気づく審。
すべてを消し去ることで平穏を手に入れた男は、かつて自分が何をしたのか、そのすべてを突きつけられます。
汐に導かれ、向かうは図書館の地下。そこに封印された「本当の預言書」が、ついに世界の仮面を完全に剥ぎ取ります。次回もお楽しみに!




