塩の味、血の記憶
少女が差し出した一粒の飴玉。
口に含んだ瞬間、強烈な塩味が弾け、世界は30年前の「あの駅のホーム」へと反転する。
目の前に立つ若き日の加賀恵留。運命を拒絶したはずの審に、かつての死の瞬間が鮮烈な痛みと共に蘇る。
「これ、受け取ってください」
浅野 汐が差し出したのは、古びた、それでいて色鮮やかなセロファンに包まれた一粒の飴玉だった。
この「ニュー・セーレム中央大学」において、このような前時代の遺物は、博物館の展示品か、あるいは禁止された不純物でしかない。
審は、戸惑いながらも、震える指先でそれを受け取った。
セロファンが擦れるカサカサという乾いた音が、静まり返った教室で驚くほど不吉に響く。包みを解くと、中から現れたのは、歪な円形をした、琥珀色の塊だった。
「……これを、私に?」
「先生が、ずっと探していた『味』です」
審は、何かに導かれるように、その飴玉を口に含んだ。
舌の上で転がった瞬間、強烈な甘さと、それを追い越していくような暴力的な「塩分」が弾けた。
――その瞬間、世界が悲鳴を上げた。
キィィィィィィィィィン!!
鼓膜を突き刺すような金属音。
目の前の教卓が、一瞬にして錆びついた鉄の柵へと姿を変える。
校庭から聞こえていた鳥の声は、列車の入線を告げる無機質なアナウンスへと上書きされた。
「……っ、ぐあぁぁ!!」
審は頭を押さえて膝をついた。
視界が明滅する。
オレンジ色の夕陽に照らされた平和な教室の壁が、古いコンクリートの剥き出しの壁へと剥がれ落ちていく。
整然と並んでいた学生の机は、仕事に疲れ果てたサラリーマンたちがうつむいて立つ、灰色の群衆へと変貌した。
『次は、ニュー・セーレム、ニュー・セーレム――』
アナウンスが響く。
審は、自分の着ている服が、教授のガウンではなく、安っぽいポリエステルのスーツになっていることに気づいた。
足元には、すり減った革靴。
手には、締め切りに追われた書類が詰まった、重い鞄。
「……ここは、あの日の……」
冷たい風が吹き抜ける。
そこは、30年前に自分が「一度目の人生」を終えた、あの駅のホームだった。
周囲の人々の顔は、デジタルノイズのようにぼやけているが、その重苦しい空気、排気ガスの臭い、そして遠くから迫る電車の地響きだけは、今の自分(教授)の肌に、あまりに鮮烈な痛みを伴って伝わってくる。
そして、群衆の隙間に、彼女がいた。
白い官僚服。氷のような瞳。
加賀 恵留。
若き日の彼女が、かつての審の後ろに立ち、静かに手を伸ばしている。
これから起こる悲劇。
自分を突き飛ばし、この地獄のシミュレーションへと叩き込んだ、あの運命の数秒間。
『……新野 審。準備はいい?』
幻影の恵留が囁く。
その声は、目の前に立っているはずの浅野 汐の声と、完全に重なっていた。
「やめろ……もう、終わったはずだ! 俺は、あの日死んで、終として戦って、すべてを消し去ったんだ!」
審が叫ぶと、ホームの風景が激しく波打った。
飴玉の「塩」の味が、血の味へと変わる。
自分が弥栄を拒絶した時の叫び、恵留を失ったすべてが「現在」の肉体にフィードバックされ、老いた心臓を破裂せんばかりに締め付ける。
「先生、しっかりして」
汐の温かな手が、審の肩に触れた。
その瞬間、駅のホームの喧騒が、ガラスが割れるような音を立てて砕け散った。
視界が戻る。
そこは再び、静かな大学の教室だった。
だが、審の口の中には、確かに「血と塩の混ざった味」が残り、足元の床には、幻影の駅で感じたはずの冷たい風の感触が、濡れた足跡のように刻まれていた。
「……今のは、何だ」
審は喘ぎながら、汐を見上げた。
彼女は、何も変わらない表情で、ただ悲しげに審を見つめていた。
「先生の中の『記録』が、現実に耐えきれなくなっているんです。この世界という皮が剥がれれば、中から出てくるのは、血に塗れたあなたの本物だけ……」
汐は審の手に残った飴玉の包み紙を、優しく握らせた。
「さあ、始めましょう、先生。……私たちが、本当の意味で『生まれる』ための、最後の答え合わせを」
汐の温もりによって現実に戻るも、口の中に残る「血と塩の味」は消えない。
世界の皮が剥がれ、本物の記憶に耐えきれなくなっていく審の肉体。
崩壊し始める平和の裏で、二人の「答え合わせ」が今、始まる。




