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『存在の汐』  作者: rouge
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忘却の教壇

管理なき自由を手に入れ、争いも飢えも消えた平坦な世界。

かつて運命を拒絶した少年は、名を「審」と変え、静かな絶望の中で生きていた。

だが、無人の教室に残った一人の少女・浅野汐が、世界の「ブレ」の正体を突きつける。

 世界は、あまりに正しく、そしてあまりに静かだった。

 かつての『ニュー・セーレム』の傷跡を塗り潰すように建てられた、ニュー・セーレム中央大学。その第三講義棟、三〇二号室。

 **新野にいの あきら**は、教壇に置かれた木製の演台に、節くれだった自らの手を置いた。

 その手は、かつて駅のホームで突き飛ばされた時よりも、荒野で重い剣を振るっていた時よりも、ずっと白く、透き通っているように見えた。血管の浮き出た皮膚の下で脈打つ血の音が、この静寂すぎる教室では、不当に大きく響いている気がしてならない。

「……本日の講義は、以上だ」

 審は、手元の端末を操作することなく、ただ口頭で告げた。

 教室内には、数十名の学生が座っている。彼らは一様に、首筋に埋め込まれた最新の通信端子スロットを微かに発光させ、網膜に投影された授業資料を無表情に追っていた。

 そこには「歴史」が記されている。

 かつて人類を管理しようとしたAI『ロゴス』の暴走と、それに対するレジスタンス『エグゾダス』の闘争。そして、英雄たちが命を賭して勝ち取った、この「管理なき自由」。

 学生たちにとって、それは紀元前の神話と大差ない、乾いた記号の集積に過ぎない。

 一人の男子学生が、欠伸を噛み殺しながら立ち上がる。

 一人の女子学生が、友人と「今夜のサプリメント」の流行について囁き合いながら、端末を閉じる。

 審は、その光景をただ、灰色の瞳で見つめていた。

(……自由、か)

 審は自問する。

 かつての戦いで、自分は『新野 ぜん』として、母・弥栄の狂った執着を切り捨てた。そして、この世界を「白紙」に戻したはずだった。

 だが、その白紙の上に描かれたのは、痛みも情熱もない、あまりに平坦な風景だった。

 人々は争うことをやめ、飢えることもなく、ただ最適化された幸福を享受している。

 しかし、何かが決定的に欠落している。

 街の風景が、時折、古いデジタルカメラの解像度が足りない画像のように、僅かにブレることがある。あるいは、空の色が、誰かが描いた絵の具のように一定すぎて、吐き気がすることもある。

「先生」

 思考を遮ったのは、潮騒のような、微かな声だった。

 学生たちが波が引くように去った後の、無人の教室。

 最後列の、窓際の席に、一人の少女が座っていた。

 浅野あさの しお

 彼女は、他の学生のように通信端子を発光させてはいなかった。

 彼女の首筋は、滑らかで、白く、いかなる機械的デバイスも受け入れていない「無垢」なままだった。

 夕暮れの、燃えるようなオレンジ色の光が、窓から差し込み、彼女を背後から照らしていた。

 その輪郭は光に溶け、まるですべてが作り物のこの世界の中で、彼女一人だけが、別の現実からこぼれ落ちた「一粒の砂」であるかのように、審の網膜に焼き付いた。

「……質問かな、浅野さん」

 審は、自分の声が微かに震えているのを自覚した。

 名簿に記載された彼女の情報は、極めて簡素だった。成績は平均的。特筆すべき経歴もなし。だが、彼女がそこに「いる」という事実だけが、教室の空気の密度を、暴力的なまでに変えていた。

「先生。今日の講義で、先生は仰いました」

 汐はゆっくりと立ち上がり、審を見つめた。

「『歴史は、残された記録の総意である』と」

「……ああ。それが、現在の歴史学の定義だ」

「では、先生。その記録に『自分の意志』が含まれていない場合、それは誰の歴史なんですか?」

 汐は、一歩、教壇に向かって歩き出した。

 その歩調は、静かながらも確実で、審の心臓の鼓動と奇妙に同期した。

「私たちは、記録を信じることでしか自分を定義できません。でも、その記録が……もし、誰かが作り上げた『優しい嘘』だとしたら?」

 審の脳裏に、不意に一筋のノイズが走った。

 かつて、加賀 恵留が自分を突き飛ばした時に発した、あの冷たい電磁波に似た、精神の「亀裂」。

「……君は、この世界を疑っているのかね」

「いいえ。疑っているのは、先生、あなたの方です」

 汐は審の目の前まで来ると、その小さな、だが温かそうな指先を、冷たい演台の上に置いた。

 彼女の瞳は、深海のような静謐さと、すべてを見透かすような残酷さを同時に孕んでいた。

「先生は、ずっと待っているんでしょう? この世界のどこかに、自分がかつて流したはずの『血の味』が残っていないかどうかを」

 審は言葉を失った。

 三十年の月日をかけて塗り潰し、忘れ去ろうとしたはずの「ゼン」としての記憶が、この少女の一言で、生々しい傷口のように開き始めた。

「優しい嘘」に塗り潰された世界で、首筋にデバイスを持たない少女が語る、隠された真実とは。

30年の沈黙を破り、忘れたはずの「血の味」が審の脳裏に蘇る。

新たなバグが今、静かに回り出す。

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