二重螺旋の対話
図書館の地下に眠る、かつて「なかったことにした」世界の墓場。
そこに這いずり出たのは、論理を奪われノイズに塗れた加賀恵留と、感情を奪われドロリとした泥のようになった母・弥栄だった。
「消去という名の殺人」の重圧に押し潰され、審は再び右手の消しゴム(タルタロス)に手を伸ばす。だが、その唇を割り込んで弾けたのは、かつての温もりを宿した、一粒の飴玉だった。
大学附属図書館の地下三階。本来なら、重要文献の保管庫として静寂が約束されているはずの場所だった。
だが、審が汐と共に重厚なセキュリティドアを抜けた瞬間、耳を打ったのは、数百万のページが同時にめくれるような、不吉な風の音だった。
「……何だ、これは」
審の視界の中で、書架がぐにゃりと歪んだ。
整然と並んでいた背表紙の文字が剥がれ落ち、空中に黒い文字の豪雨となって降り注ぐ。床はもはやコンクリートではなく、半透明の光ファイバーがのたく走る「情報の地層」へと変貌していた。
「ここは、先生が『なかったことにした』世界の墓場。……そして、先生の脳が拒絶し続けてきた、真実のキャッシュメモリです」
汐の声が、嵐のような情報の奔流の中で、一点の揺らぎもなく響く。
前方から、一つの人影が揺らめきながら現れた。
白い官僚服。だが、その輪郭は絶えずノイズに蝕まれ、顔の半分は剥き出しの回路が露出している。
「……恵留」
『……久しぶりね、アキラ。あるいは、ゼンと呼ぶべきかしら』
かつての「突き飛ばした女」の残留思念。彼女は、審が第2部でロゴスを破壊した際、そのシステムと共に消去されたはずだった。だが、彼女はバグとして、この情報の底に沈殿していた。
『あなたは、私に突き飛ばされたことを恨んでいた。でも、あなたが最後に選んだのは、私と同じ「消去」という救済だった。……皮肉だと思わない? 自由を求めたあなたが、最も冷徹な管理者の顔をして、あの子の記憶を奪ったなんて』
恵留の指先が、審の喉元を指す。そこには、かつての拘束具の感触が、幻影の痛みとして蘇る。
その時、恵留の背後から、もう一つの叫びが空間を切り裂いた。
情報の地層から、どろりとした赤黒い情念が噴き出し、一人の女の形を成す。
「……母さん」
弥栄。
だが、それは審が知る「戦士の母」でも、「聖母の狂気」でもなかった。
審が『TARTARUS』によって切り離した「審への愛」と「母親としての記憶」。それだけが、魂を失ったデータの塊として、審に這い寄ってくる。
『ゼン……痛い……暗いよ……。どうして、私の、心を……消したの……?』
弥栄の残骸は、顔のない泥のようになりながらも、終であった頃の審の脚に縋り付く。
「……やめろ! 救うためだったんだ。あんたを、狂気から救うために、俺は……!」
「いいえ。あなたは、自分の罪悪感から逃げるために、彼女の人生の一部を殺したんです」
汐が、冷酷なまでに正論を突きつける。
「恵留さんは論理を捧げ、弥栄さんは感情を奪われた。二人の犠牲の上に、あなたの『穏やかな老教授としての15年』が築かれている」
審の足元の情報の地層が崩れ、彼は深淵へと滑り落ちそうになる。
左右から迫る、二人のヒロインの亡霊。
論理としての恵留が審の思考を縛り、感情としての弥栄が審の心を締め付ける。
「ああ……っ、あああああ!!」
審の右腕に、消去コード『TARTARUS』が激しく脈動して浮かび上がる。
この場にいる亡霊たちを、再び「完全消去」してしまえば、この苦しみからは逃れられる。
かつてのように。
審が、呪われた右手を掲げようとした、その時。
「――食べてください、先生」
汐が、審の口に強引に「何か」を放り込んだ。
それは、あの時と同じ、強烈な塩味のする飴玉。
だが、今度の味はそれだけではなかった。
苦い血の味。
焼けつくような硝煙の匂い。
そして、かつて教室で嗅いだ、幼い日の弥栄の髪の香りと、恵留が最期に見せた、人間らしい涙の温もり。
「消しちゃダメ。……抱きしめてください。その痛みこそが、あなたが人間である唯一の証拠だから」
審の右手の青い紋章が、汐の言葉に呼応して、静かに白く浄化されていく。
審は、這いずる弥栄の残骸に、そしてノイズに震える恵留の影に、ゆっくりと手を伸ばした。
それは消去するためではなく、初めて、自らの人生の一部として「受け入れる」ための、震える抱擁だった。
再び消去して逃げる道ではなく、その生々しい痛みごと、二人の人生を抱きしめることを選んだ審。
白く浄化された右手の紋章は、彼がこれまでの罪を受け入れ、「一人の人間」として生きる覚悟の証でした。
亡霊たちとの涙の抱擁の果てに、崩壊を始めるGEHENNA。
そして汐が告げる、本当の『生まれる』ための物語は、いよいよ最終局面へと突入します。次回もお楽しみに!




