第9話「選ぶということ」
放課後の教室は、昼間の騒がしさが嘘のように静かだった。
窓から差し込む光は少し弱くなり、机の影が長く伸びている。
前田敏弘は、教室の入口に立ったまま岡倉真優美を見ていた。
真優美は自分の席に座ったまま、机の上に視線を落としている。
さっき放った言葉。
「ちょっと距離、考えたほうがいいのかな」
その一言が、教室の空気を重くしていた。
敏弘はゆっくりと歩き出し、真優美の前の席に座る。
椅子がきしむ音がやけに大きく響いた。
「もう一回言ってみろ」
静かな声。
怒っているわけではない。
しかし、いつもより確実に重い。
真優美は少しだけ肩を震わせた。
「……ごめん」
「謝れって言ってない」
敏弘は視線を外さない。
「理由を聞いてる」
真優美は唇を噛む。
言うべきか迷っているのが分かった。
しばらく沈黙が続いたあと、小さく口を開く。
「……怖いんだと思う」
「何が」
「このままだと、いろいろ言われ続けること」
真優美はゆっくりと顔を上げた。
その目は揺れていた。
「私だけならまだいい。でも前田くんまで巻き込まれてる」
敏弘は少しだけ目を細める。
「巻き込まれてるって思ってるのか?」
「だって実際そうでしょ」
真優美の声が少し強くなる。
「校外学習の時も、噂も、全部」
「私といるせいで……」
そこまで言いかけて、真優美は言葉を止めた。
喉の奥で詰まるような感覚。
敏弘はしばらく黙っていた。
そして、静かに言う。
「じゃあ聞くけど」
真優美は顔を上げる。
「岡倉さんは、俺と一緒にいるの嫌なのか?」
その言葉に真優美は一瞬固まる。
「違う……!」
反射的に出た声だった。
「嫌じゃない」
すぐに言い直す。
教室の空気が少しだけ変わる。
敏弘は小さく息を吐く。
「なら、それでいいだろ」
「でも……」
「でもじゃない」
敏弘の声は強くない。
だが逃げ道を塞ぐような真っ直ぐさがあった。
「俺は勝手に一緒にいるわけじゃない」
敏弘は続ける。
「お前と話すのが嫌なら、とっくに離れてる」
「噂とか関係ない」
真優美は言葉を失う。
しばらく沈黙が続いたあと、真優美は小さく呟いた。
「……前田くんって、ほんとに変だよね」
「どこが」
「普通なら、もっと距離取ると思う」
敏弘は少しだけ視線を窓に向ける。
「普通って何だよ」
その一言に、真優美は少しだけ笑った。
しかしその笑いはすぐに消える。
「でも私さ」
真優美は机の上で手を握る。
「前田くんに迷惑かけたくないのは本当」
その言葉は嘘じゃない。
だからこそ重い。
敏弘は立ち上がる。
真優美がびくっとする。
だが敏弘はそのまま窓の方へ歩いた。
外は夕焼けに染まり始めている。
オレンジと紫が混ざる空。
「迷惑って言うなら」
敏弘は窓の外を見たまま言う。
「もう一つだけ聞く」
真優美は黙って聞く。
「俺が誰といるか、俺が決めちゃダメなのか?」
その言葉に、真優美の胸が強く揺れる。
「それは……」
答えが出ない。
出せない。
敏弘は振り返る。
「俺はお前といるのが迷惑だと思ったことは一回もない」
「むしろ逆だ」
少し間。
「変に気を使われるほうが、嫌だ」
その言葉は少しだけ弱くなった。
本音だった。
真優美は目を伏せる。
胸の奥が苦しいのか、温かいのか分からない感覚。
「……ごめん」
また謝ってしまう。
しかし敏弘は首を振る。
「謝るな」
しばらくの沈黙。
その空気を破ったのは、真優美だった。
「じゃあさ」
小さな声。
「前田くんは……どうしたいの?」
敏弘は少しだけ目を細める。
その質問は、簡単そうで一番難しいものだった。
少しの間のあと、敏弘は言う。
「別に変えたくない」
「何も」
真優美は顔を上げる。
「今のままでいい」
「噂とか関係なく」
「お前がどう思うかも含めて」
その言葉は、優しさというより“選択”だった。
教室は完全に静まり返っていた。
時計の針の音だけがやけに響く。
真優美はゆっくりと立ち上がる。
そして小さく息を吐く。
「……わかった」
ただ、その「わかった」は完全な納得ではなかった。
迷いを残したままの返事だった。
その夜。
前田家の部屋。
敏弘は窓の外を見ていた。
「今のままでいい」
自分で言った言葉。
それは間違いではない。
だが、どこか胸に引っかかっている。
同じ夜。
岡倉真優美は机の前で座っていた。
ノートは開いているが、文字は進まない。
「今のままでいい」
その言葉が頭から離れない。
嬉しかった。
でも同時に怖かった。
(このまま進んでいいのかな)
(それとも、本当に離れた方がいいのかな)
窓の外では雨が降り始めていた。
静かに、音もなく。
そして翌日。
二人の間に、これまでとは違う“静かな変化”が訪れることになる。
それは、距離が離れる変化ではない。
もっと厄介な――
「分からなくなる」という変化だった。
第10話へ続く




