第10話「答えのない距離」
翌朝の教室は、妙に静かだった。
昨日までのざわつきが嘘のように、空気が一段落ち着いている。
しかしそれは“終わった”静けさではない。
むしろ、何かを観察しているような静けさだった。
前田敏弘は窓際の席に座り、外を見ていた。
空は薄い雲に覆われている。
まだ雨は止んでいない。
ぽつり、ぽつりとガラスに水滴が当たる音がする。
教室のドアが開く。
岡倉真優美が入ってくる。
いつもならすぐに敏弘のところへ来る。
だが今日は違った。
一瞬、視線が合う。
しかしすぐに逸らして、自分の席へ向かった。
敏弘はその様子を見て、わずかに眉を動かす。
(……なんだ?)
昨日の会話の後から、何かが変わっている。
明確な拒絶ではない。
しかし“距離”がある。
休み時間。
敏弘が振り返ると、真優美は友達と話していた。
笑っている。
だがその笑いは、少しだけ前と違う。
無理に作っているような、薄い笑顔。
昼休み。
敏弘は教室に残っていた。
いつもなら真優美が来る。
しかし今日は来ない。
代わりに友達と食堂へ向かっていた。
(避けてるのか?)
そう思った瞬間、自分の胸が少しだけ重くなる。
だがすぐに否定する。
(いや、違う)
昨日「今のままでいい」と言ったのは自分だ。
だから、これは当然の形なのかもしれない。
放課後。
雨は少し強くなっていた。
廊下の窓から見えるグラウンドは灰色に沈んでいる。
敏弘は一人で教室に残っていた。
すると――
「……前田くん」
小さな声。
振り返ると、真優美が立っていた。
少し距離を取ったまま、そこにいる。
いつものように近づいてこない。
敏弘はすぐに気づく。
(やっぱり、変だ)
「何だよ」
短く聞く。
真優美は一瞬迷ってから口を開く。
「今日さ……ちょっと考えてたんだけど」
「うん」
真優美は視線を床に落とす。
「やっぱり私、前田くんと一緒にいると……」
そこで止まる。
喉が詰まるような沈黙。
敏弘は待つ。
急かさない。
だが、その沈黙が長く感じる。
「……目立つ」
やっと出た言葉だった。
真優美は続ける。
「悪い意味じゃなくて……でも、見られるのが怖い」
「昨日のことも、今日の空気も」
敏弘は静かに聞いている。
「前田くんは気にしないって言ってくれたけど」
「私はまだ、そこまで強くないから」
真優美の声は少し震えていた。
敏弘は一歩近づく。
真優美は少しだけ肩を揺らす。
「じゃあ聞く」
敏弘の声は低い。
「お前はどうしたいんだ?」
真優美は顔を上げる。
目が合う。
しかし、答えはすぐに出ない。
「……分からない」
それが本音だった。
敏弘は目を細める。
怒っているわけではない。
ただ、少しだけ寂しそうだった。
「分からない、か」
小さく繰り返す。
教室に雨の音が響く。
静かな時間。
真優美は続ける。
「でも、嫌いになったわけじゃない」
慌てて言葉を足す。
「それは絶対違う」
その言葉に敏弘は少しだけ表情を緩める。
「ならいい」
短く言う。
真優美は驚く。
「え?」
敏弘は窓の外を見る。
「無理に決めなくていい」
「距離とか、噂とか」
「そういうのは俺が考える」
真優美は目を見開く。
「でもそれじゃ……」
「いいんだよ」
敏弘は振り返る。
「俺が勝手にそうしたいだけだ」
その言葉は、優しさでもあり、少しだけ頑固さもあった。
真優美は言葉を失う。
胸の奥がざわつく。
(この人は……どこまで)
そのとき、チャイムが鳴る。
静かな時間は終わる。
真優美は小さく頭を下げる。
「……ありがとう」
そして自分の席へ戻っていく。
敏弘はその背中を見送る。
(これでいいのか)
初めて、自分の選択に迷いが生まれていた。
その夜。
雨はさらに強くなっていた。
街の灯りがぼやける。
敏弘は部屋で窓を見ていた。
「分からない」
その言葉が頭に残っている。
同じ頃。
真優美はアパートの机でうつむいていた。
ノートには何も書かれていない。
(嫌いじゃない)
(でも怖い)
その矛盾が、心を締めつける。
そして二人はまだ気づいていない。
この“分からない距離”こそが、最も崩れやすい状態だということに。
雨は一晩中降り続いた。
まるで、何かの答えを待つように。
第11話へ続く




