第8話「揺れる関係」
夕暮れのバスが校門に到着したとき、車内は妙に静かだった。
さっきまでの騒がしさが嘘のように、疲れた空気だけが残っている。
「着いたぞー」
先生の声で、生徒たちが一斉に動き出す。
前田敏弘は窓の外を見ていた。
オレンジ色に染まる空。
その色はどこか現実離れして見えた。
隣では岡倉真優美がまだ眠っている。
規則正しい寝息。
少しだけ寄りかかっている。
敏弘は一瞬、そのままにしておこうか迷った。
しかし――
「岡倉さん」
小さく声をかける。
真優美はゆっくり目を開けた。
「……あれ、着いた?」
「うん」
「やばっ」
慌てて起き上がる。
髪が少し乱れている。
その姿に敏弘は軽く視線を逸らした。
バスを降りると、班ごとに解散となった。
生徒たちはそれぞれ帰宅準備を始める。
しかし、その空気の中で、明らかに違う視線が二人に向けられていた。
「さっき寝てたよな」
「前田に寄りかかってたし」
「距離近すぎじゃね?」
小さな声。
だがそれは確実に積み重なっていく。
真優美は気づいていた。
そして少しだけ表情が曇る。
帰り道。
駅へ向かう途中の道は、夕方の風が吹いていた。
「疲れたな」
敏弘が言う。
「うん……でも楽しかった」
真優美はそう答える。
だがその声には少しだけ力がなかった。
敏弘は気づく。
「どうした?」
「え?」
「なんか元気ない」
真優美は一瞬黙る。
そして少し笑う。
「別に、何でもないよ」
その“何でもない”が嘘だと、敏弘には分かった。
駅前。
人が多い。
帰宅する学生、仕事帰りの大人。
ざわざわとした空気の中で、二人は少しだけ歩調を落とす。
「前田くん」
真優美が立ち止まる。
「ん?」
「今日さ……」
言いかけて、止める。
「やっぱいい」
「何だよ」
敏弘が少し眉をひそめる。
真優美は小さく首を振る。
「ほんとに何でもない」
そして無理に笑った。
その夜。
敏弘は自宅の自室で、今日のことを思い返していた。
バスの中。
展望台。
手を取った瞬間。
そして、帰りの空気。
(何か引っかかる)
真優美の最後の表情が頭から離れない。
同じ頃。
岡倉家のアパート。
真優美は机に向かっていた。
しかしノートは開かれたまま、ペンは動かない。
「……何やってるんだろ」
小さく呟く。
展望台でのことを思い出す。
手を握った瞬間。
近すぎた距離。
温度。
心臓の鼓動。
そして、帰りの視線。
(前田くんといると楽しい)
それは本心だった。
でも同時に――
(なんで見られてるんだろう)
その疑問がずっと残っている。
翌日。
教室の空気は、昨日よりもさらに変わっていた。
「なぁ昨日さ」
「バスの中やばくなかった?」
「もうカップルだろあれ」
笑い混じりの声。
だがその言葉は、真優美の胸に刺さる。
休み時間。
真優美は一人で廊下に出ていた。
すると後ろから声がする。
「岡倉さん」
振り返ると、女子グループの一人が立っていた。
「ちょっと聞いていい?」
「……何?」
「前田くんと付き合ってるの?」
ストレートな質問。
真優美は一瞬固まる。
「違うよ」
即答。
しかしその声は少しだけ強かった。
「でもさ、最近ずっと一緒じゃん」
「班も一緒だし」
「普通じゃないよね」
矢継ぎ早の言葉。
真優美はうつむく。
(普通って何?)
その疑問が頭をよぎる。
そのとき。
「岡倉さん」
後ろから声。
前田敏弘だった。
会話を聞いていたわけではない。
だが空気は感じ取っていた。
「行くぞ」
それだけ言う。
真優美は驚く。
「え?」
「教室戻る」
敏弘は自然に歩き出す。
真優美は少し遅れてついていく。
廊下を歩きながら、真優美は小さく言う。
「さっきの……」
「気にすんな」
「でも」
「気にすんなって言ってる」
少し強い声。
真優美は黙る。
しばらく沈黙。
そして真優美はぽつりと言った。
「前田くんはさ」
「ん?」
「こういうの、平気なの?」
敏弘は少し間を置く。
「平気じゃない」
「じゃあ――」
「でも、慣れてる」
その言葉に真優美は顔を上げる。
「慣れてるって……」
「昔からだ」
短い返事。
それ以上は言わない。
だが真優美は気づく。
(この人も、傷ついてるんだ)
その日の放課後。
真優美は教室に残っていた。
誰もいない空間。
静かな時間。
窓の外は曇っている。
敏弘が戻ってくる。
「まだいたのか」
「うん」
真優美は小さく言う。
「ねぇ前田くん」
「何」
少し間。
そして真優美は言った。
「ちょっと距離、考えたほうがいいのかな」
その瞬間。
教室の空気が止まる。
敏弘は真優美を見る。
真優美は視線をそらさない。
だがその目は少し揺れていた。
敏弘はゆっくり言う。
「それ、誰のため?」
真優美は答えられない。
窓の外で、風が揺れる。
カーテンがふわりと動く。
二人の間に、今までで一番大きな沈黙が落ちた。
そして――
この一言が、関係を大きく変える分岐点になる。
第9話へ続く




