第3話「噂と距離」
翌朝。
教室の空気は、いつもと少し違っていた。
ざわざわとした声があちこちから聞こえる。
前田敏弘が教室に入ると、数人の視線が一斉に向いた。
「なぁ、あれ本当?」
「前田ってやっぱ御曹司なんだって」
「家にプールあるらしいよ」
敏弘は小さくため息をつく。
(またか……)
彼にとって“お金持ち”という肩書きは、昔から厄介なものだった。
近づいてくる人間の多くが「前田敏弘」ではなく「前田グループの息子」として見てくる。
その事実に慣れてはいても、好きにはなれない。
そこへ。
「前田くん!」
いつもの明るい声。
岡倉真優美が駆け寄ってきた。
「おはよう。」
「おはよう!」
真優美はいつも通りだ。
だが敏弘は少し安心する。
少なくとも彼女は、自分の家柄ではなく“自分”を見てくれている気がしたからだ。
その頃、教室の後ろでは別の空気が流れていた。
「ねぇ見た?」
「昨日、岡倉さんと前田くん一緒に帰ってたよね」
「え、もしかして付き合ってる?」
「いやいや、さすがに早くない?」
小さな噂。
しかしそれは、広がるのが早いタイプのものだった。
真優美はそれを聞いて、少し固まる。
「……え?」
敏弘も気づく。
周囲の視線が、さっきまでより少し違う。
興味と好奇心と、少しの嫉妬。
昼休み。
真優美は一人で屋上へ向かっていた。
弁当を持って階段を上る。
「ここなら落ち着くから……」
そう呟きながらドアを開けると。
「お、先客。」
そこには敏弘がいた。
風が吹く屋上。
彼は柵にもたれながら空を見ている。
「前田くんもここ来るんだ。」
「うん。教室、少し疲れるから。」
真優美は苦笑する。
「わかるかも。」
二人は並んで座った。
しばらく沈黙。
だが不思議と気まずくはない。
真優美がぽつりと言った。
「ねぇ……昨日のことなんだけど。」
「うん?」
「私たち、変な噂されてるよね。」
敏弘は少し黙る。
「聞いた。」
「ごめん。私のせいかも。」
「なんで?」
「一緒にいるから。」
その言葉に、敏弘は首を振る。
「それは違う。」
はっきりとした声だった。
真優美は驚いて顔を上げる。
敏弘は続ける。
「誰と仲良くするかなんて自由だろ。」
「でも……」
「気にしなくていい。」
その言葉は優しかった。
けれど真優美には少し遠く感じた。
午後の授業。
空気はまだ少し重かった。
しかし事件は突然起きる。
体育の授業。
バスケットボールの試合中。
真優美が相手と接触して転倒した。
「岡倉!」
先生が駆け寄る。
「大丈夫か?」
足を押さえている。
「ちょっと痛い……」
敏弘もすぐに駆け寄った。
「保健室行こう。」
「大丈夫だよ、これくらい……」
立ち上がろうとするが、よろける。
敏弘は迷わず言った。
「無理するな。」
そして。
真優美の腕を支えた。
そのまま保健室へ向かう。
廊下。
静かな空間。
真優美は少しだけ顔を赤くしていた。
「前田くん、重くない?」
「別に。」
「ごめんね。」
「謝ることじゃない。」
短いやりとり。
でもその距離はいつもより近い。
真優美は気づいてしまう。
(この人、やっぱり優しい……)
保健室。
先生が処置をする。
「軽い捻挫だね。無理しなければ大丈夫。」
真優美は安心したように息を吐いた。
「よかった……」
敏弘もほっとする。
「今日は安静だって。」
「うん。」
先生が席を外すと、二人だけになる。
少しの沈黙。
真優美がぽつりと聞いた。
「前田くんってさ。」
「うん?」
「なんで私に普通に接してくれるの?」
敏弘は少し考えた。
そして言った。
「普通って何?」
真優美は言葉に詰まる。
敏弘は続ける。
「お金持ちとか貧乏とか、関係ある?」
その言葉に真優美は驚く。
窓の外。
夕方の光が差し込む。
敏弘は静かに言った。
「岡倉さんは岡倉さんだろ。」
「それ以上でも、それ以下でもない。」
真優美の胸が少し熱くなる。
(この人は……本当にそう思ってるんだ)
その日。
教室に戻った二人を見る周囲の視線は、また少し変わっていた。
噂はまだ消えない。
むしろ強くなっていく。
だがその中心にいる二人は、まだそのことに気づいていない。
そして――
この“距離の近さ”が、これから大きな波を呼ぶことになる。
第4話へ続く。




