第17話「動き出した心」
夕暮れの公園。
オレンジ色の光が静かに広がる中、岡倉真優美はベンチに座ったまま俯いていた。
「離れたくない」
自分で言った言葉なのに、まだ信じられない。
言うつもりなんてなかった。
もっと曖昧な返事をして、その場をやり過ごすつもりだった。
それなのに。
前田敏弘の前では誤魔化せなかった。
敏弘は隣に座ったまま、しばらく何も言わなかった。
真優美は少し不安になる。
「……何か言ってよ」
小さく呟く。
敏弘は空を見上げた。
「何を」
「何をって……」
真優美は困る。
「普通、何かあるでしょ」
「例えば?」
「例えば……」
そこで真優美は言葉に詰まる。
敏弘は少しだけ笑った。
「難しい注文だな」
真優美は頬を膨らませる。
「前田くん、そういうところあるよね」
「どこだよ」
「変に落ち着いてる」
敏弘は肩をすくめた。
「慌てても仕方ないだろ」
真優美は思わず吹き出した。
「ほんと変」
その笑顔を見て、敏弘も少し表情を緩める。
しばらく沈黙。
でも今までのような苦しい沈黙ではない。
少しだけ心地いい沈黙だった。
やがて敏弘が口を開く。
「一つだけ聞いていいか」
「うん」
「離れたくないって言ったのは、本音なんだな?」
真優美の鼓動が少し速くなる。
「うん」
「迷ってない?」
「迷ってる」
即答だった。
敏弘が少し驚く。
真優美は苦笑した。
「だって怖いもん」
「何が」
「全部」
そう言って空を見る。
「私ね」
「うん」
「今までずっと、頑張れば何とかなるって思ってたの」
敏弘は黙って聞く。
「勉強も」
「バイトも」
「生活も」
「お金がなくても努力すればどうにかなるって」
少し笑う。
「実際、何とかなってきたし」
敏弘は頷く。
真優美は続ける。
「でも人の気持ちは違う」
「え?」
「頑張っても分からない」
「考えても答えが出ない」
「前田くんのことになると特に」
言った瞬間、恥ずかしくなって顔を逸らした。
敏弘は一瞬黙る。
そして小さく笑う。
「それは俺も同じだ」
真優美が顔を上げる。
「え?」
敏弘は珍しく少し困ったような顔をしていた。
「俺だって分からない」
「前田くんが?」
「そんな驚くな」
真優美は思わず笑った。
だって前田敏弘はいつも冷静だ。
何でも分かっているように見える。
しかし敏弘は続ける。
「お前が距離置くって言った時」
「うん」
「正直、腹立った」
真優美が固まる。
「え?」
「え?じゃない」
敏弘は苦笑する。
「だって突然だろ」
「それは……」
「しかも理由が“分からない”」
真優美は視線を逸らした。
確かにそうだった。
「悪かったって」
「今さらだな」
「うぅ……」
真優美は机に突っ伏したい気分になる。
敏弘は少しだけ笑った。
「でもな」
真優美が顔を上げる。
「離れたくないって聞いて安心した」
その言葉に心臓が跳ねる。
夕日の色が濃くなる。
真優美は何も言えない。
敏弘もそれ以上は言わなかった。
ただ二人とも少しだけ笑っていた。
翌日。
教室。
「おはよう」
真優美が席に向かう途中で言う。
敏弘は少し驚く。
ここ数日、真優美から話しかけることは少なかった。
「おう」
短く返す。
それだけなのに、なぜか少し嬉しかった。
しかし。
その様子を見ていた人たちがいた。
「戻った?」
「どうなんだろ」
「やっぱり仲良いよな」
クラスメイトたちである。
噂は終わっていなかった。
昼休み。
真優美は食堂へ向かう。
すると後ろから声。
「岡倉さん」
振り返る。
同じ学年の女子。
あまり話したことはない。
「ちょっといい?」
どこか言いにくそうな顔。
真優美は少し緊張した。
校舎裏。
人気の少ない場所。
女子は深呼吸して言った。
「前田くんと付き合ってるの?」
またその質問だった。
真優美は苦笑する。
「違うよ」
「本当に?」
「本当に」
女子は少し黙る。
そして言った。
「じゃあ私、前田くんのこと好きなんだ」
真優美の思考が止まる。
「え……」
女子は照れたように笑った。
「だから聞いた」
心臓がドクンと鳴る。
今まで噂を聞いても。
周囲に何か言われても。
こんな感覚になったことはなかった。
胸の奥がざわつく。
女子は続ける。
「もし付き合ってないなら、私アプローチしようと思ってる」
真優美は返事ができない。
頭の中が真っ白になる。
「ごめんね、変なこと聞いて」
女子はそう言って去っていった。
一人残る真優美。
(アプローチ……)
(前田くんに?)
急に胸が苦しくなる。
自分でも理由が分からない。
いや。
本当は分かっていた。
放課後。
真優美は教室でぼんやりしていた。
敏弘が近づく。
「どうした」
「え?」
「昼から変だぞ」
真優美は慌てる。
「そんなことない」
「ある」
即答。
敏弘は椅子を引いて座る。
「何があった」
真優美は黙る。
言うべきか迷う。
しかし。
「……今日ね」
「うん」
「前田くんのこと好きな人がいるって聞いた」
敏弘は一瞬止まる。
「は?」
真優美は苦笑した。
「私もそんな反応だった」
敏弘は腕を組む。
「誰だ」
「言わない」
「なんで」
「約束だから」
敏弘は少し考える。
「そうか」
意外とあっさり引いた。
真優美は少しモヤモヤした。
(もっと驚かないの?)
(気にならないの?)
そんな感情が生まれる。
敏弘はそんな真優美を見て言った。
「で?」
「え?」
「お前はどう思った」
その質問に真優美は固まる。
どう思ったか。
胸が苦しかった。
嫌だった。
知らない誰かに敏弘を取られる気がした。
でも。
その答えを言う勇気はまだなかった。
窓の外では夕日が沈み始めている。
二人の関係は少しずつ進んでいる。
けれど今度は新しい問題が現れた。
それは噂でも、周囲の視線でもない。
「嫉妬」
初めて真優美が向き合うことになる感情だった。
そしてその感情は、彼女自身が思っている以上に大きく膨らんでいく。




