第16話「本音の行方」
「終わってない」
屋上で前田敏弘に言われたその言葉は、岡倉真優美の頭から離れなかった。
家に帰っても。
夕食を食べていても。
勉強をしていても。
ベッドに入っても。
何度も何度も思い出してしまう。
狭いアパートの部屋。
古いエアコンの音だけが響く。
真優美は天井を見つめていた。
「終わってないって……」
小さく呟く。
距離を置くと言ったのは自分だ。
敏弘も受け入れた。
なのに、なぜあんなことを言ったのだろう。
スマホを手に取る。
トーク画面を開く。
『前田くん』
文字を打つ。
でも送れない。
消す。
また打つ。
消す。
「もう……」
自分でも何がしたいのか分からない。
翌朝。
教室。
敏弘はいつも通り窓際の席に座っていた。
本を開いている。
しかしページはほとんど進んでいない。
(何やってるんだろうな)
自分でも思う。
距離を置くと言われた。
了承した。
それなのに気になる。
教室のドアが開く。
真優美が入ってくる。
一瞬だけ目が合う。
しかし二人とも何も言わない。
「おはよー」
周囲の声。
日常は変わらない。
でも二人だけが少し違う。
1時間目。
数学。
先生の説明が続く。
真優美はノートを取っている。
しかし内容はほとんど頭に入らない。
ふと前を見る。
敏弘の背中。
(前田くん……)
そのとき。
先生の声。
「岡倉」
「はい!」
突然当てられる。
クラスが少し笑う。
「今の問題の答えは?」
真優美は固まった。
聞いていなかった。
教室が静かになる。
すると。
前の席から小さな声。
「24」
敏弘だった。
真優美はすぐに言う。
「24です」
先生は頷く。
「正解」
授業再開。
真優美は前を見る。
敏弘は何事もなかったようにノートを書いている。
(なんで……)
距離を置いているはずなのに。
昼休み。
真優美は中庭のベンチに座っていた。
一人。
弁当箱を開く。
だが食欲はない。
「ため息多いね」
突然声がした。
振り返る。
クラスメイトの女子。
木村奈々だった。
「奈々ちゃん」
奈々は隣に座る。
「前田くんのこと?」
真優美はむせそうになる。
「な、なんで!?」
「分かりやすいから」
奈々は笑う。
「最近ずっと変だし」
真優美は黙る。
奈々は少し真面目な顔になる。
「喧嘩したの?」
「してない」
「じゃあ?」
真優美はしばらく悩む。
そして小さく話し始めた。
距離を置いていること。
周囲の視線。
迷っていること。
奈々は最後まで聞いた。
「なるほどね」
「どう思う?」
真優美が聞く。
奈々は即答した。
「好きなんでしょ?」
真優美が固まる。
「え……」
「違うの?」
「いや、その……」
顔が熱くなる。
奈々は笑う。
「その反応で違うは無理だよ」
真優美はうつむく。
「でも……」
奈々は続きを待つ。
「好きだけじゃダメなこともあると思う」
その言葉に奈々は少し考える。
「確かにある」
「でしょ?」
「でもね」
奈々は真優美を見る。
「好きなのに離れるのも、結構しんどいよ?」
真優美は何も言えなかった。
放課後。
教室。
敏弘は鞄をまとめていた。
そこへ担任が来る。
「前田」
「はい」
「ちょっと手伝ってくれ」
職員室へ向かう。
資料運び。
10分ほどで終わった。
教室へ戻る途中。
廊下の角で声が聞こえる。
「だから、私はまだ分からなくて……」
真優美の声だった。
思わず足が止まる。
相手は奈々。
「前田くんは?」
「優しい」
真優美は答える。
「すごく優しい」
「じゃあ何が問題なの?」
沈黙。
そして。
「優しいから困るの」
敏弘の足が止まる。
真優美は続ける。
「嫌いになれない」
「離れようとしても気になる」
「でも近づくのも怖い」
奈々は苦笑する。
「重症だね」
真優美も少し笑った。
その笑顔は寂しそうだった。
敏弘はそれ以上聞かなかった。
静かにその場を離れる。
夕方。
校門前。
真優美が歩いている。
その後ろから声。
「岡倉」
振り返る。
敏弘だった。
真優美の心臓が跳ねる。
「前田くん」
少し沈黙。
風が吹く。
敏弘はポケットに手を入れたまま言う。
「話ある」
真優美は緊張する。
「う、うん」
二人は近くの公園へ向かった。
子供たちはもう帰っている。
静かな夕暮れ。
ベンチに座る二人。
少し距離がある。
敏弘が先に口を開く。
「距離置くのはいい」
真優美は黙る。
「でも」
敏弘は続ける。
「一つだけ聞く」
真優美の手が少し震える。
「何?」
敏弘は真っ直ぐ見た。
「お前、本当はどうしたい」
真優美は息を飲む。
また同じ質問。
でも今度は逃げられない気がした。
長い沈黙。
夕日が少しずつ沈んでいく。
そして。
真優美は小さく言った。
「……本当は」
声が震える。
「離れたくない」
敏弘の表情が少しだけ変わる。
真優美は続ける。
「でも怖い」
「周りも」
「未来も」
「全部」
涙が少しだけ浮かぶ。
「だから分からなくなってた」
敏弘は黙って聞いていた。
そして。
ゆっくり言う。
「そうか」
それだけ。
でもその一言には、どこか安心したような響きがあった。
夕日が二人を照らす。
距離はまだある。
問題も何も解決していない。
それでも。
初めて真優美は本音を口にした。
「離れたくない」
その言葉は、二人の関係を少しだけ前へ進める。
まだ恋人ではない。
まだ答えも出ていない。
だが。
止まっていた時間は、確かに動き始めていた。
第17話へ続く




