第14話「選択の朝」
翌朝。
教室に入った瞬間、空気が少し違うことに気づいた。
前田敏弘は一瞬だけ足を止める。
(……なんだ?)
ざわついているわけではない。
むしろ静かだ。
なのに、どこか“意識されている空気”がある。
席に座ると、すぐ後ろの男子が小声で話しているのが聞こえた。
「なぁ、知ってる?」
「何を」
「岡倉と前田、今日ちょっと距離置くらしいって」
敏弘の手が一瞬止まる。
(……距離?)
視線だけを動かす。
教室の入口。
まだ真優美は来ていない。
数分後。
ドアが開く。
「おはよ……」
真優美の声はいつもより小さい。
そして敏弘と目が合う。
一瞬。
でもすぐ逸らされる。
(昨日の続きか)
敏弘は小さく息を吐いた。
朝のホームルーム。
担任がプリントを配る。
「来週から進路面談もあるからなー」
いつも通りの声。
でもその言葉が今日は少し重く聞こえた。
休み時間。
真優美は机に座ったまま動かない。
敏弘も同じく。
しかし、いつもと違う。
話さない。
昼休み。
その違和感はさらに強くなる。
真優美は教室にいなかった。
(どこ行った?)
敏弘は無意識に立ち上がる。
廊下に出る。
人の流れ。
階段。
食堂。
見つからない。
そのとき。
「前田」
後ろから声。
振り返るとクラスメイトの男子。
「岡倉さん、さっき職員室行ってたぞ」
「……何で」
男子は少し気まずそうに言う。
「なんか、進路のことで先生と話すって」
敏弘は小さく頷く。
「そうか」
だが胸の奥に、妙な違和感が残る。
(進路?今?)
放課後。
教室はすでに人が少ない。
敏弘は机に座っていた。
本も開かない。
そこへ。
「前田くん」
振り返る。
真優美が立っている。
だが、いつもと違う。
目が少し赤い。
「話ある」
短い言葉。
敏弘はゆっくり立ち上がる。
「聞く」
廊下。
人はいない。
真優美は壁際に立つ。
少し距離を取っている。
敏弘はその距離を見て言う。
「で?」
真優美は深呼吸する。
「先生に言われたの」
「何を」
「このままだと、進路が危ないって」
敏弘は眉をひそめる。
「は?」
真優美は続ける。
「バイトもしてるし、成績はいいけど」
「精神的に安定してないって」
「だから……」
言葉が止まる。
敏弘は静かに聞く。
「だから何だよ」
真優美は目を伏せる。
「距離を置いた方がいいって」
その一言が、廊下に落ちる。
敏弘は数秒黙る。
そしてゆっくり言う。
「それ、誰の判断だ」
真優美は少し戸惑う。
「先生……」
敏弘は即答する。
「違う」
「それは先生の“意見”だ」
真優美は顔を上げる。
「でも、間違ってないと思う」
その声は弱い。
「私、最近ずっと揺れてるし」
「このままだとダメになる気がする」
敏弘は一歩近づく。
真優美は少しだけ後ずさる。
「で」
敏弘の声。
「お前はどうしたいんだ」
真優美は言葉に詰まる。
「それが……分からないの」
敏弘は小さく舌打ちする。
「またそれかよ」
真優美の目が揺れる。
「ごめん……」
敏弘は少しだけ顔をしかめる。
「謝るなって言ってる」
沈黙。
そして真優美が小さく言う。
「前田くん」
「私、たぶん……」
言葉が止まる。
「ちゃんと考えたい」
「ちゃんと整理したい」
敏弘は黙っている。
真優美は続ける。
「一回、少しだけ距離置いてもいい?」
その言葉は、決定ではなく“お願い”だった。
敏弘は窓の外を見る。
夕方の光。
しばらくの沈黙。
そして言う。
「……分かった」
真優美の肩が少し落ちる。
安心なのか、罪悪感なのか分からない表情。
「ごめん」
また謝る。
敏弘は小さく首を振る。
「謝るな」
その声は、今までで一番静かだった。
真優美は少しだけ笑う。
でも泣きそうでもある。
「ありがとう」
そして歩き出す。
廊下の向こうへ。
敏弘はその背中を見送る。
(距離を置く、か)
初めて“選ばれなかった”のではなく
“選ばせた側”になった感覚。
胸の奥が、少しだけ空く。
その夜。
雨は降っていないのに、やけに静かだった。
真優美は机の前で座っている。
スマホには何も打たれていない。
(これでいい)
(これでいいはず)
でも指は動かない。
一方その頃。
敏弘は窓を見ていた。
「分かった」
その言葉だけが、ずっと残っている。
そして二人はまだ知らない。
この“距離を置く”という選択が
終わりではなく
もっと複雑な始まりだということを。
第15話へ続く




