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焔の契り~騙せない妖狐の初恋譚~  作者: 佐東 利里子
◆3章

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颯の記憶 (3)


 ◆ ◆ ◆



 ハッと目が覚める。

 寝室に敷かれた布団の上で飛び起きた颯は、目をごしごしと擦りながら辺りの様子を窺った。家の中には自分以外の気配がない。

 よろよろと立ち上がるとふらつきながら慌てて玄関まで向かい、引き戸を開けて外の様子も確かめた。見える範囲には誰もおらず、暮れて暗くなってきている山林にカラスの鳴き声がこだましているだけだった。


「お母さん……まだ帰ってきてないの?」


 呟きが虚しく落ちる。

 日が暮れる頃にはと言っていたのに、周囲には家に向かって歩いてくるような母親の気配すら感じられなかった。


 ――『……いいか、颯。お母さんのこと、頼んだぞ。おまえが、守ってやるんだ』


 覚悟を決めたような父親の顔が脳裏を過った。


 ぎゅっと拳を握る。ばくばくと心臓が鳴っている音を聞きながら、目の前に張られている結界を見た。

 父親と颯の妖力で張った、家族の居場所と外界を隔てるための結界。颯は産まれてから一度もここから出たことはなかったし、口酸っぱくここから出てはいけないと言われて育ってきた。自分の出自を知ってしまった今なら、それは守られていたからだとわかる。

 だけど今、その中で一人だけ悠長に守られているわけにはいかないと思った。父親にとっても颯にとっても守りたい存在がここにいないのだから。

 

 恐る恐る、結界の膜の外に片足を出してみる。まとわりついてくる布のような手触りを押し退けながら、そのまま颯は全身を結界の外に出した。全身を包む空気の温度が少し下がったように感じる。

 目の前には結界の中から見えていた通りの暗い森林が広がっていて、試しに振り返って見ると、そこにあるはずの我が家の姿が見えなくなっていた。


「お父さん、結界から出ちゃってごめんなさい!」


 せり上がってくる緊張とともに唾を飲み込むと、颯は父親に聞こえていない謝罪の言葉を残しながらも意を決した顔で走り出した。


 なんだかすごく心がざわざわしていた。山奥から初めて外の世界へと飛び出して高揚しているからじゃない。母親を止めきれずに一人で行かせてしまった後悔が、颯の胸の内でじぐじくと心地悪さを増やしていた。


 初めての山の斜面だといのに、颯は躊躇うことなく突き進んだ。息切れもせずに加速しながら、軽々と獣道や崖を下っていく。

 家の付近に母親の気配はなかったが、母親が歩いたであろう気配の痕跡を辿りながら颯は一心不乱に山を駆け下りていった。


 そうして颯が山の麓まで下りていくと、建物が密集している場所に辿り着いた。

 広くて長い平坦な道の両側に建物がずらりと建ち並んでいて、一帯にはたくさんの人間が行き交っている。初めて見る人込みに圧倒されながらも、颯は好奇心に溢れた顔ですれ違う人や建物を眺めながら通りの真ん中を歩いた。


「すごい、人がたくさんいる……」


 思わず漏れた感嘆のため息は、大勢があちらこちらで話す喧騒にあっという間に飲み込まれた。歩きながら誰かと話している人もいれば、建物の前で呼びかける人につられて言葉を交わしている人もいる。


 通りに面した建物はどれも軒先の下が開いていて、そこで何やら物を売っているようだ。

 干した川魚の開きが平台に並んでいる建物の前で颯はふと足を止める。父親が捌いて天日干しして、母親が七輪で焼いてくれたことがあるものとよく似ていた。

 見慣れたものが結界の外の世界にもあることに、一種の感動を覚えてしまう。そしてそれは、緊張していた颯の心を一瞬だけ落ち着かせてくれた。


「坊や、おつかいかい?」


 干物を見つめていると頭の上から声が降ってきて驚いた。見上げると、頭に手拭いを巻いた男の人がにこやかな笑みを颯に向けている。

 まさか話しかけられると思っていなかったので目を丸くして固まってしまった。しかも、言われているおつかいの意味がわからない。


「干物だけじゃなくて今日捕ってきたイワナもあるけど見るかい?」


 説明してくれる柔和な表情の男性に悪意を感じないが、用がないのにここに長居してはいけないなと颯は判断した。問いかけには答えず、そそくさと人の波に合流してそこから離れた。


 先ほどまでより早足になった颯は、大人たちの足とぶつかりそうになるのを上手く躱しながら突き進む。

 歩いても歩いても、どこまで行ってもたくさんの人がいた。次第にその人が二種類の気配に分かれていることに気付く。


 一つは父親の気配、もう一つは母親の気配に似ている。それがあやかしと人間、異なる種族の気配なのだと颯は初めて理解できた。


 お父さんみたいな気配の人とお母さんみたいな気配の人はいっぱいいる。でも、()()()()()()()()()()はいないんだな……。


 どれだけの人とすれ違っても、自分と同じ気配はどこにも感じられなかった。その意味の重大さが颯の足を重くする。


 ――あやかしと人間の間に産まれた禁忌の子。

 その存在の異質さを、颯は身を以て感じていた。そして一人でこんな人込みに紛れ込んでしまったのはやはりよくないことなのではと、今になって後悔が鼓動を強くする。

 しかし、ここまで来て立ち止まってなんかいられない。弱気な気持ちに引きずられて重くなる足をどうにか前に動かし続けて、目当ての母親を見つけ出すことに集中した。


「お母さん、どこだろう……」


 山からこの一帯に向かって残っていた僅かな母親の気配の痕跡を辿ってきたまではいいが、ここに来てからはたくさんの気配があって母親の気配が薄まっていた。近くにいそうなのにとても遠くに感じる。


 試しに建物と建物の間の狭い通路も歩いてみた。喧騒から離れたことでたくさんの気配が颯の意識から遠ざかり、颯にまとわりついていた重苦しさもやや薄まる。

 すると、親しみ慣れた気配の揺らぎに気付いた。


「あっ、こっちだ……!」


 微かに感じ取った母親の気配に引き寄せられるように颯は駆け出す。その足は路地裏を進み、やがて密集した建物が途切れて視界が広がった。


 冷たい風が颯の頬を刺す。目の前に現れたのは河川敷だった。

 土手から河原を見下ろした颯ははっとする。

 そこには数人の人影があり、何やら口論しているみたいで緊迫した雰囲気が漂っていたのだ。襟が詰まった揃いの黒い服装の男性二人が一人の女性を取り囲んでいる様子は颯の目にものものしく映る。

 しかもその渦中の女性こそが、颯の母親だった。


「いた、お母さん……!」


 颯は土手を下りて母親のもとへ向かおうとするが、近くには河原に下りるための段差などはない。仕方なく背の高い雑草が生い茂っている斜面を無理矢理下ることにした。

 颯がそうしている間にも口論の声は響く。知らない男性たちよりも圧倒的に母親の声が切羽詰まっていて、初めて聞くような硬い声だった。


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