颯の記憶 (1)
――櫻井颯の最も古い記憶は5歳になる少し前。
あやかしと人間がまだ共生していた時代だが、そのどちらの目からも隠れるように山奥で両親と慎ましく暮らしていた頃だ。
幼い颯は父親にしてもらう高い高いが好きだった。しかし今はすぐに下ろされてももう一度をねだらずに、父親の手を引いて早く早くと家屋へ促す。父親の帰りを毎日待ち侘びているのは自分だけではないのだ。
建付けが悪い引き戸をガタガタと片手で開けた。
「お母さん! お父さん帰ってきたよ!」
「おかえりなさい風炎さん、今日もご苦労様でした」
広い土間の台所で炊事をしていた颯の母親が手を止めて顔を上げた。父親の顔を見るなり目尻の皺を深くしながら安堵の表情になる。
「ああ、ただいま巴。……今日も無事でよかった」
父親は颯の手を繋いだままもう片方の手で母親の肩を抱き寄せる。幸せを噛み締めるような声色だった。颯がそんな父親を真似するように両親の腰に抱きつくと、3人は顔を見合わせて朗らかに笑った。
しばしじゃれ合うように仲睦まじく抱き合っていたが、竈の上でぐつぐつと音を立てて煮込まれている鍋に気付いた父親が中を覗き込んで声を弾ませた。
「おっ、旨そうだなぁ!」
背伸びをしても鍋の中身が見えない颯がぴょんぴょんと跳ねる。
「見えなーい。何作ってるの?」
「颯とお父さんが好きな猪鍋よ」
「やったー!」
「もう食べられるから、颯、ちゃんとお手々を洗ってね」
「はーい」
お腹が鳴りそうだった颯は、母親に言われてすぐに土間の端に置いてある水瓶の方に向かった。定期的に父親と沢から汲んできて貯水しているものだ。
水瓶の木の蓋を開けて、柄杓で汲んだ水を桶に入れて手を洗う。その間に母親が颯に聞こえないようにと意識したのか父親にこっそり耳打ちしようとする姿を視界の端で捉えた。土汚れを落とす振りをしながら颯はこっそりと耳をそばだてる。隠し事をされるのは気になるが、何とく自分は聞いてはいけない内容にも思えた。
「……血が、ついてました」
神妙な面持ちの母親が前掛けの紐にかけていた手拭いでさっと父親の首を拭った。
「そうか、すまないな」
気まずそうにふいっと母親から目を逸らす父親の表情が曇る。気が抜けたように上がり框に腰かけると、深く息を吐きながら項垂れた。母親は隣に座ると労るように父親の背中を撫でた。
そんな二人の姿を、颯は手を拭きながらちらちらと見ていた。血という言葉で一気に不穏な空気を感じ取る。
「また、見つかってしまったんですか?」
「ああ……。3人の鬼が来て職場で襲撃された。見たことない顔ぶれだったが、間違いなく俺の親の差し金だろう」
「職場でって……。あなた今、建設現場で働いていましたよね? まさか人間を巻き込んで――」
「そんなことはしない! 俺が人間を傷つけたくないことは君が一番知っているはずだろう? ……自分と同じあやかしだって、好きで殺めていない!」
父親が声を荒立てる。鬼気迫ったようなそれに母親だけでなく颯もびくりと肩を震わせた。両親はそこで颯の存在を思い出し、ぎこちない笑みを揃って颯に向けてくる。
「ごめんな颯、大きな声を出して……。お父さん別に、颯に怒ってるわけじゃないからな」
「……うん」
「颯、お手々洗えたのね。もう少しで食べる準備ができるから、そっちで待っててくれる?」
「うん……」
小さく首を縦に振り、母親が指差した奥の部屋に大人しく向かう。寝室として使っている六畳の和室に入って襖を閉めると、二人が小声で会話を再開した。
どう考えても、両親は颯に内緒で話したいことがあるらしい。だけど胸騒ぎがした颯はその場から動かず、少しだけ残していた襖の隙間を覗き込んだ。
「さっきはごめんなさい。……無神経でした。風炎さんは、私と颯のためにしてくれてるんですものね。あなたの手を汚させているのが本当に申し訳ないわ」
震えている父親の手を母親が握る。もう片方の手で顔を覆った父親は抗うように首を横に振った。
「君たちのためではあるが、君たちに責任を負ってほしいわけじゃないんだ。全部俺が決めたことで、俺が巴と……産まれてきてくれた颯と生きたいと願ってしまったから」
「それは私も同じでしょう? それこそ責任は、二人で負うべきものよ」
「……ああ、ありがとう」
肩を震わせる父親を母親が抱き締める。そんな両親を抱き締めたい衝動が颯の胸の内を走るが、唇をきゅっと内側に丸め込んでどうにか堪えた。
「……とりあえず、また働き口を探さないとな。追手たちが職場の人たちを人質にしてきたからどうにか守りながら戦ったのだが……みんなが俺を見る目は今までとは変わっていたよ。もうあそこにはいられない」
「そんな、ひどい……。風炎さんは何も悪くないのに!」
目を潤ませて悔しそうに顔を歪ませる母親を、今度は父親が慰めるように腕の中に包み込んだ。
「ありがとう。巴がそう思ってくれるだけで俺は幸せだよ」
「風炎さん……」
「それに、人間たちがあやかしを警戒するのは当たり前だ。君みたいに異能持ちでもない限り、あやかしの妖力は不可思議で恐ろしいものに映る。自分とは違うものは異物でしかないからね。普段は気にしないようにしていたとしても今日はそんな異物の力を目の前で見たんだ、恐れても仕方ないさ」
「でも、あやかしを拒むのに異能持ちなら許せるのはおかしな話です。異能持ちの私たちだって人間の中では異質でしょう? 力があるのは同じなのにその違いは何だっていうの。どうして、種族が違うだけでこんな目に……」
「種族が違う、だからこそだよ。同じ括りの中にいるかいないかは、自分の敵か味方かを判別するには簡単な指標になるからね」
どこか遠くを見つめるような目で父親がぽつりとこぼした言葉の意味を、颯は必死に理解しようとした。
種族が違う……じゃあ、自分たちは敵と味方ってことになるのだろうか。家族なのに?
颯は父親が鬼のあやかしで、母親が異能持ちの人間であることは聞かされて理解していた。そして自分が、二人の力を受け継いでいることも。
しかし産まれてからずっとこの山奥の中で暮らしてきたので、そもそも二人の力の違いや異種族であることまではよくわからない。敵と味方とか言われてもぴんとこなかった。
颯にとっては、父親と母親と自分だけの世界がすべてなのだから。
「……でも大丈夫だ、力さえ使わなければあやかしに好意的な人たちもたくさんいるんだから。仕事はまた探すしちゃんと資金は稼ぐから心配しないで」
「私が心配しているのはお金じゃなくてあなたの身の安全ですけどね……。でもありがとう、無理はしないでくださいね」
「ああ、もちろん。……ただ、できるだけ君たちを待たせているここから離れたくないのだが、追手の目を撹乱するためなら少し足を伸ばすべきなのかもしれないな」
「もういっそのこと、移住した方が……。それに、あなたがあやかしたちから狙われているのなら私が働きに行きます。颯も大きくなってしっかりしてきたし、あの子の妖力があれば一人で結界を張って留守番することもできると思うんです」
名案とばかりに母親の顔に喜色が溢れる。颯も思わずお留守番なら任せてと胸を張って襖を開けそうになるが、「それはだめだ!」と父親の緊迫した声がそれらをぴしゃりと押さえつけた。




