福岡交響楽団
第100話
「福岡交響楽団」
春。
桜が舞う季節だった。
小倉美香は、新しいトロンボーンケースを肩にかけていた。
行き先は――
福岡交響楽団
音大卒業後。
正式なオーディションを経て入団が決まった。
子どもの頃。
トロンボーンの「ド」の音を出すだけで必死だった少女。
その少女が今、プロオーケストラの一員になろうとしていた。
朝。
小倉家。
優馬は朝から落ち着かない。
「美香、忘れ物なか?」
「大丈夫」
「譜面は?」
「ある」
「楽器は?」
「持っとる」
「昼ご飯は?」
「優馬お父さん」
美香は苦笑した。
「仕事初日たい」
「遠足じゃなか」
美鈴が笑う。
「優馬が緊張しとるやん」
光子が言う。
「お父さん」
優子も続ける。
「娘の初出勤で壊れとる」
優馬
「壊れとらん!」
光子
「半壊」
優子
「いや大破」
朝から小倉家は平常運転だった。
美香はマンションを出る。
歩いて数分。
振り返れば小倉家が見える。
少しだけ笑った。
「行ってきます」
福岡交響楽団。
練習場。
入口の前で深呼吸する。
緊張。
音大入学の日以来かもしれない。
扉を開く。
中ではすでに音が鳴っていた。
ヴァイオリン。
ヴィオラ。
チェロ。
コントラバス。
フルート。
オーボエ。
クラリネット。
ホルン。
トランペット。
トロンボーン。
チューバ。
打楽器。
音の海だった。
音大とも違う。
ここには、
職業として音楽を続けている人たちがいる。
美香は思わず背筋を伸ばした。
「失礼します」
先輩団員が笑顔で迎えた。
「小倉さん?」
「はい」
「待っとったよ」
少しだけ肩の力が抜ける。
トロンボーンセクションへ案内される。
先輩奏者が言う。
「最初は緊張するよね」
「はい」
「みんなそうやった」
美香は席に座る。
楽器を組み立てる。
マウスピースをつける。
息を入れる。
ロングトーン。
音が響く。
音大時代とは違う。
でも。
怖くない。
隣にいる人たちも、
同じように音楽を愛している。
そう感じた。
練習開始。
指揮者が登場する。
静寂。
タクトが上がる。
ベートーヴェン。
第七交響曲。
第一楽章。
音が走り出す。
美香も吹く。
必死だった。
譜面を追う。
周囲を聴く。
音程。
リズム。
呼吸。
全部に神経を使う。
あっという間に午前練習が終わった。
「お疲れさま」
先輩が声をかける。
「どう?」
美香は正直に答えた。
「楽しいです」
先輩は笑った。
「それなら大丈夫」
昼休み。
スマホを見る。
グループLINE。
ファイブピーチ★。
通知99件。
「なんねこれ」
開く。
光子
『お姉ちゃん生きとる?』
優子
『トロンボーンに食べられてない?』
奏太
『それはないと思う』
小春
『お仕事どうですか?』
光子
『お姉ちゃんが団員さんに完熟トマトになってないか心配』
美香
『なっとらん』
即座に返信。
優子
『怪しい』
奏太
『怪しい』
小春
『怪しいです』
美香
『全員敵やん』
思わず笑った。
午後練習。
さらに音を重ねる。
そして夕方。
練習終了。
帰り道。
夕焼け。
福岡の街。
美香はゆっくり歩いた。
昔。
自分には未来なんてないと思っていた。
音楽なんて遠い世界だと思っていた。
でも今。
プロのオーケストラの一員として歩いている。
小倉家へ向かう道。
家の前では。
光子。
優子。
奏太。
小春。
そして美鈴と優馬。
全員待っていた。
「おかえりー!」
近所中に聞こえる声だった。
美香は笑った。
「ただいま」
優馬が聞く。
「どうやった?」
美香は空を見上げる。
そして答えた。
「楽しかった」
美鈴が微笑む。
「ならよかった」
光子が言う。
「じゃあ次はファイブピーチ★の練習たい」
優子
「休ませろ」
全員爆笑。
こうして。
小倉美香の新しい音楽人生が始まった。
トリプルピーチ★。
ファイブピーチ★。
そして。
福岡交響楽団。
どれも美香にとって大切な居場所だった。
次回予告
福岡交響楽団で始まったプロ奏者としての日々。
一方、ファイブピーチ★も新たな楽曲制作へ。
そして東京では、音大三年生となったアキラが大きな決断を迎える。
次回、第百一話
「それぞれの未来」




