表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帰る場所~光の指す方へ  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/12

酒の味

 第八話

「酒の味」


 十二月。


 街には、少しずつ年末の空気が流れ始めていた。


 スーパーでは正月用品の予約が始まり、商店街にはクリスマスソングが流れる。


 だが、配送会社にとって十二月は、一年で最も忙しい時期だった。


「黒木、これ追加」


「まだ増えるんですか?」


「年末やけん」


「いや、もう荷台いっぱいですよ」


「頑張れ」


 笑いながら伝票を渡される。


 和正は苦笑しながらも、荷物を積み込んだ。


 朝は暗いうちから始まり、帰宅は夜遅く。


 道路は混み、客先は急かし、会社へ戻ればまた次の荷物。


 その繰り返しだった。


 和正は、最近よく缶ビールを飲むようになっていた。


 最初は一本だけ。


「今日は疲れたけん」


 そう言って、風呂上がりに飲む。


 香織も、その頃はまだ強くは言わなかった。


「飲みすぎんようにね」


「わかっとる」


 和正は笑っていた。


 美香は、その缶をじっと見ていた。


「父ちゃん、それおいしいと?」


「これは大人の飲み物」


「コーヒーとどっちが苦い?」


「こっち」


「じゃあ飲めん」


「美香にはまだ早い」


 和正はそう言って笑った。


 その笑顔は、まだ優しかった。


 会社では、忘年会の話が出ていた。


「今年も店予約したぞ」


「お、焼肉らしいぞ」


「黒木、来るやろ?」


「まあ……少しだけ」


「少しだけって言うやつが一番飲むんよ」


 事務所に笑いが起きる。


 疲れていた。


 みんな疲れていた。


 だからこそ、酒の席くらいは笑いたかった。


 和正も、そう思っていた。


 ある夜。


 和正はいつもより遅く帰宅した。


 玄関を開けると、美香が眠そうな目をこすりながら走ってきた。


「父ちゃん」


「まだ起きとったんか」


「待ってた」


 和正は少し驚いた。


「なんで?」


「今日、絵描いた」


「絵?」


「父ちゃんのトラック」


 美香は画用紙を持ってきた。


 クレヨンで描かれた、大きな青いトラック。


 タイヤはなぜか八個あった。


「増えとるやん」


「かっこよくした」


「強そうやな」


 和正は笑った。


 その笑顔を見て、美香も笑った。


 香織が台所から声をかける。


「ご飯温める?」


「頼む」


 和正は座布団に座ると、大きく息を吐いた。


 疲れていた。


 肩も腰も重い。


 だが、美香の笑顔を見ると、少しだけ気持ちが軽くなる。


「父ちゃん」


「ん?」


「お酒って、おいしいと?」


 和正は缶ビールを見た。


「おいしいというか……疲れがちょっと飛ぶ感じやな」


「疲れ、飛ぶ?」


「ちょっとだけな」


「魔法みたい」


「そんな大したもんじゃない」


 香織が味噌汁を置きながら言った。


「飲みすぎたら逆に疲れるけどね」


「わかっとる」


「ほんと?」


「ほんと」


 その時は、まだ本当に“少しだけ”だった。


 和正はまだ、自分が酒に飲まれるとは思っていなかった。


 ただ、疲れを忘れたかった。


 荷物の重さ。

 クレーム。

 時間。

 責任。


 全部を少しだけ、頭の外へ追い出したかった。


 その夜。


 美香は、和正の隣で絵を描いていた。


「父ちゃん」


「なんや?」


「大きくなったら、私もトラック乗れる?」


「女の子でも乗れるぞ」


「ほんと?」


「免許取ったらな」


「じゃあ取る」


「でも、美香はもっと違う仕事しそうやな」


「なんで?」


「歌とか好きやろ」


 美香は少し考えた。


「でも父ちゃんの仕事も好き」


 和正は缶ビールを口に運ぶ手を止めた。


 それから、少し照れたように笑った。


「そっか」


 その一言が、和正には嬉しかった。


 娘に、自分の仕事を好きと言われる。


 それは、疲れた身体にとって、小さな救いだった。


 だが、その頃にはもう、和正の机の上には空き缶が増え始めていた。


 一本だけ。


 そう言っていた缶が、二本になる日も増えていた。


 香織はそれを見ながら、小さくため息をつく。


「飲みすぎんでよ」


「大丈夫」


「ほんとに?」


「明日には抜ける」


 和正は笑っていた。


 その「大丈夫」は、まだ自分でも信じていた。


 酒は、まだ“疲れを忘れる道具”だった。


 壊れるためのものではなかった。


 けれど人は、疲れた時ほど、自分の限界を見誤る。


 そして、“少しくらいなら”が、人生を壊す最初の言葉になる。


 美香はまだ知らない。


 父が「明日には抜ける」と笑ったその酒が、数年後、自分たちの人生を暗転させることを。


 その時の美香にとって、酒はまだ、“父ちゃんが飲む苦い大人の飲み物”でしかなかった。


 次回予告


 疲れを忘れるため、少しずつ酒を飲むようになっていく和正。


 それでもまだ、家には笑い声が残っていた。


 だが、年末の忙しさは限界へ近づいていく。


 増えていく荷物。

 減らない疲労。

 そして、会社の忘年会。


 次回、第九話

「忘年会」


 その夜の一杯が、黒木家の運命を変える。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ