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帰る場所~光の指す方へ  作者: リンダ


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疲れた背中

 第七話

「疲れた背中」


 冬が近づくにつれて、和正の帰宅時間は少しずつ遅くなっていった。


 城南区の古いアパート。


 時計の針が九時を過ぎても、玄関のドアは開かない。


 美香は、食卓に頬杖をつきながら、何度も時計を見ていた。


「父ちゃん、まだ?」


 香織は鍋を弱火にかけ直しながら答える。


「今日は遅いって連絡あった」


「お仕事?」


「うん」


 美香は小さく頷いた。


 それでも眠気に負けず、起きて待っていた。


 ガチャ。


 玄関の鍵が開く音。


「ただいま……」


 和正の声は、いつもより低かった。


 作業着にはうっすらと雨の匂いがついている。


「おかえり!」


 美香が走っていく。


 和正は笑おうとしたが、途中で顔が歪んだ。


「うおっ……腰……」


「大丈夫?」


「ちょっと積み込みでな……」


 和正は壁に手をつきながら靴を脱いだ。


 その背中は、以前より丸く見えた。


 美香は、その背中を見上げた。


「父ちゃん、疲れとる?」


「ちょっとな」


「いっぱい働いた?」


「いっぱい働いた」


「すごい」


 和正は苦笑した。


「すごいというか、きついというか」


 香織が温め直した味噌汁を置く。


「ご飯食べる?」


「食う」


 和正は座布団に腰を下ろした瞬間、小さく息を漏らした。


「はぁ……」


 そのため息は、美香が知っている父のものとは少し違っていた。


 幼稚園の頃は、帰ってきたらまず笑っていた。


 今は、座るだけで疲れている。


 美香は和正の背中をじっと見た。


 大きな背中。


 でも、少し小さくなった気がした。


「父ちゃん」


「ん?」


「肩、痛いと?」


「肩も腰も足も全部痛い」


「全部?」


「全部」


 美香は真剣な顔になった。


「大変や」


「大変やろ」


 和正は少し笑った。


 食事をしながらも、和正の箸はゆっくりだった。


 香織が聞く。


「今日も忙しかった?」


「ああ。年末近いけん荷物増えとる」


「増員したのに?」


「増えた分、荷物も増えた」


「意味ないやん」


「まあ、前よりはマシ」


 和正は味噌汁を飲んだ。


 熱い汁が胃に落ちる。


 その瞬間だけ、少しだけ生き返る気がした。


「今日な、客先でめっちゃ怒鳴られた」


「なんて?」


『遅い』『まだ来んのか』『何やっとる』って」


 香織は黙った。


 和正は苦笑した。


「道路が空飛べたら早く行けるんやけどな」


 美香が真顔で言った。


「トラックに羽つける?」


 和正は吹き出した。


「それや!」


「ほんと?」


「いや、飛んだら危ない」


「安全第一やろ?」


「そうそう」


 少しだけ、空気が軽くなる。


 けれど、和正の目の下には濃い疲れが残っていた。


 その夜。


 美香は、自分の小さな手で和正の背中を押していた。


「なにしよる?」


「押してる」


「なんで?」


「疲れ取れるかなって」


 和正は、一瞬黙った。


 それから、小さく笑った。


「ありがとな」


「治った?」


「ちょっと治った」


「ほんと?」


「うん。美香先生、すごい」


 美香は嬉しそうに笑った。


 和正はその笑顔を見ながら、ふと思った。


 もっと早く帰りたい。


 もっと家にいたい。


 もっと、この子と話したい。


 けれど現実は、そう簡単ではなかった。


 翌朝。


 まだ外は暗い。


 和正は静かに起き上がった。


 腰が痛い。


 肩も重い。


 鏡を見ると、自分の顔が少し老けた気がした。


 台所で缶コーヒーを開ける。


 プシュ。


 その音が、小さな部屋に響く。


 一口飲む。


 苦い。


 でも、頭が少しだけ動き出す。


 その時、後ろから小さな声がした。


「父ちゃん……?」


 振り返ると、美香が眠そうな目で立っていた。


「起きたんか」


「おしっこ」


「寒いやろ」


 和正は美香を抱き上げた。


 小さい。


 まだ軽い。


 和正はその温かさを感じながら、トイレまで連れて行った。


 戻る途中、美香が聞いた。


「父ちゃん、今日もお仕事?」


「うん」


「いっぱい?」


「いっぱい」


「大変やね」


「まあな」


「でも、安全第一やろ?」


 和正は少し驚いた。


 それから笑った。


「覚えとるな」


「うん」


「そう。安全第一」


 和正は美香を布団に戻し、毛布をかけた。


 美香は眠そうに目を閉じながら、小さく言った。


「父ちゃん、事故したらだめよ」


 その言葉に、和正の手が止まった。


「……せんよ」


「約束」


「約束」


 美香は安心したように眠った。


 和正はしばらく、その寝顔を見ていた。


 事故なんか起こせない。


 この子を悲しませるわけにはいかない。


 本気でそう思っていた。


 だが、人は疲れる。


 疲れは判断を鈍らせる。


 そして時に、自分だけは大丈夫だと思い込ませる。


 和正の背中には、少しずつ疲労が積もっていた。


 その疲れは、まだ小さい。


 けれど確実に、黒木家の未来へ影を落とし始めていた。


 次回予告


 仕事に追われ、疲れを抱えながらも、まだ父親であろうとしていた和正。


 美香はそんな父の背中を、小さな手で押していた。


 だが、年末が近づき、会社では忘年会の準備が進み始める。


「少しくらいなら」

「明日には抜ける」

 そんな言葉が飛び交う。


 次回、第八話

「酒の味」


 最初の一杯は、疲れを忘れるためだった。

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