缶コーヒーの匂い
第六話
「缶コーヒーの匂い」
美香は、父の仕事の匂いを知っていた。
作業着についた埃の匂い。
トラックの中に残るビニールシートの匂い。
冬の朝に持ち帰ってくる冷たい外気の匂い。
そして、缶コーヒーの匂い。
和正は仕事から帰ると、よく黒い缶コーヒーを持っていた。
「父ちゃん、それおいしいと?」
美香は、テーブルの向こうからじっと缶を見つめた。
「これか?」
「うん」
「コーヒー」
「甘い?」
「甘くない」
「じゃあ、ジュースじゃないと?」
「ジュースじゃないな。大人の飲み物」
和正は缶を軽く振って、少し笑った。
「美香もちょっと飲んでみるか?」
「いいと?」
「一口だけな」
香織が台所から振り返る。
「苦いよ」
「大丈夫」
美香は小さな両手で缶を受け取った。
冷たい。
鼻を近づけると、濃くて不思議な匂いがした。
美香はおそるおそる一口飲んだ。
次の瞬間、顔がぎゅっと縮んだ。
「苦〜い!」
和正は声を出して笑った。
「ははは。美香にはまだ、この大人の味がわからんか」
「わかるもん!」
「ほんとか?」
「今は苦いけど……大きくなったら飲めるようになるもん」
「そうか。じゃあ大きくなったら、父ちゃんと一緒に飲むか」
「うん!」
香織が笑いながら湯呑みを置いた。
「その頃には、甘いカフェオレから始めた方がいいかもね」
「ブラックは十年早いな」
「十年?」
「美香が中学生くらいになったら、また挑戦やな」
美香は胸を張った。
「中学生になったら飲む」
「ほんとかぁ?」
「ほんと!」
その日の美香にとって、缶コーヒーは父の匂いだった。
苦いけれど、嫌いではない。
大人の世界に少しだけ触れたような味。
父の仕事の隣にある味。
和正は、缶コーヒーを飲みながら、配送の話をした。
「朝は寒いけどな、トラックのエンジンかけたら、だんだんあったかくなる」
「眠くならんと?」
「なる時もある。だから休憩する。無理したら危ないけん」
「安全第一?」
「そう。安全第一」
美香は得意げに頷いた。
「知っとる。黄色は急げじゃない」
「よく覚えとるな」
「父ちゃんが教えた」
「そうやな」
和正は、美香の頭を軽く撫でた。
その手はまだ優しかった。
その夜、黒木家の食卓には、まだ小さな笑いがあった。
高い料理はない。
広い部屋でもない。
けれど、美香には十分だった。
父が帰ってきて、缶コーヒーの匂いがして、母が笑っている。
それだけで、安心できた。
ただ、和正の鞄の中には、最近もうひとつ、別の缶が増えていた。
ビールだった。
最初は一本。
仕事がきつかった日だけ。
「今日は疲れたけん、一本だけ」
そう言っていた。
香織も、最初は何も言わなかった。
「飲みすぎんようにね」
「わかっとる」
だが、年末が近づくにつれて、和正の帰りはまた遅くなった。
増員されたとはいえ、仕事が完全に楽になったわけではない。
配送量は増え続ける。
客先では急かされる。
道路は混む。
会社では忘年会の話が出始める。
「今年はよう頑張ったけん、飲もうや」
「黒木も来るやろ?」
「ああ、まあ」
「たまには息抜きせんとな」
息抜き。
その言葉は、甘かった。
和正は、缶コーヒーを飲み干したあと、空き缶を握りつぶした。
カコン、と軽い音がした。
美香はその音を、まだ怖いとは思わなかった。
父が持ち帰る缶は、仕事の缶。
父の手は、頭を撫でる手。
父の声は、笑う声。
そう信じていた。
数年後、美香は缶の音を聞くだけで肩を震わせるようになる。
ビールの缶が開く音。
床に転がる音。
乱暴に置かれる音。
その始まりが、どこだったのか。
美香には、あとになってもよくわからなかった。
ただ、この日のブラックコーヒーの苦さだけは、長く覚えていた。
苦くて、顔をしかめた。
父が笑った。
自分も、大きくなったら飲めるようになると思った。
その未来が、まだ当たり前に来ると信じていた。
⸻
次回予告
缶コーヒーの苦さに顔をしかめながらも、美香は父の仕事に憧れていた。
だが、和正の鞄には少しずつ別の缶が増えていく。
疲労。
酒。
忘年会の誘い。
「一本だけ」という言葉。
次回、第七話
「疲れた背中」
最初の一口は、いつも小さな油断から始まる。




