父の仕事後編 トラックの助手席
第五話
「トラックの助手席」
配送量が少ない土曜日の朝だった。
和正は、玄関で靴を履きながら、美香に声をかけた。
「美香。今日、父ちゃんと一緒にトラック乗るか?」
美香は、ぱっと顔を上げた。
「乗る!」
「即答やな」
「行く!」
香織が台所から顔を出す。
「危なくないと?」
「今日は短いルートだけやし、会社にも確認する。チャイルドシートもつける」
「ちゃんと安全第一よ」
「わかっとる」
美香は小さなリュックを背負い、嬉しそうに玄関へ走ってきた。
「父ちゃんのトラック、大きい?」
「大きいぞ」
「怪獣くらい?」
「そこまではない」
「じゃあゾウさん?」
「ゾウさんよりは働き者かもしれん」
美香は目を輝かせた。
会社に着くと、駐車場には何台ものトラックが並んでいた。
美香はその大きさに圧倒され、和正の手をぎゅっと握った。
「大きい……」
「怖いか?」
「ちょっと。でもかっこいい」
和正は少し照れたように笑った。
事務所に入ると、同僚たちが顔を上げた。
「お、黒木。今日は小さい助手つきか?」
「うちの娘です」
和正がそう言うと、美香は一歩前に出て、ぺこりと頭を下げた。
「黒木美香です。お父さんがお世話になってます」
一瞬、事務所が静かになった。
それから、どっと笑いが起きた。
「しっかりしとるなぁ!」
「黒木より挨拶うまいやん」
「おい、やめろ」
和正は苦笑したが、どこか誇らしそうだった。
出発前、和正はトラックの助手席にチャイルドシートをしっかり固定した。
「安全第一やけんな」
「うん」
「シートベルト、カチッとするぞ」
「カチッ」
「よし」
美香は助手席に座り、いつもより高い景色に目を丸くした。
「すごい。車が小さく見える」
「トラックは目線高いけんね。でも、そのぶん気をつけることも多い」
「気をつけること?」
「死角っていうのがある。見えん場所があるんよ。だから、曲がる時も止まる時も、ちゃんと確認せんといかん」
「見えんのに?」
「見えんけん、余計に気をつける」
和正はエンジンをかけた。
低い振動が足元から伝わる。
「いってきます!」
美香が元気よく言うと、事務所の人たちが手を振った。
「いってらっしゃい、安全運転でな!」
トラックはゆっくり会社を出た。
車内には、エンジン音と、時々入る無線の声。
美香は窓の外を見ながら、ずっと話していた。
「幼稚園でね、昨日、絵描いた」
「何描いた?」
「父ちゃんのトラック」
「おお、見たいな」
「でもタイヤが十個くらいになった」
「強そうやな」
「先生が、すごいねって言った」
「そりゃすごい」
信号で止まると、和正は前方を指差した。
「美香、信号の色わかるか?」
「赤は止まれ。青は進め。黄色は急げ」
「違う」
「えっ?」
「黄色は止まれ。安全に止まれん時だけ進む。急げじゃない」
「そうなん?」
「そう。急いだら事故になる」
美香は真剣に頷いた。
「事故したら、痛い?」
「痛いどころじゃない。人が怪我する。荷物も壊れる。車も壊れる。人生も壊れることがある」
「人生も?」
「ああ。だから父ちゃんは安全運転する」
「じゃあ、急いじゃだめ」
「そういうこと」
配送先に着いた。
和正が荷物を下ろしていると、建物の中から担当者らしき男が出てきた。
「遅いよ。もっと早く来れんのか」
和正は頭を下げた。
「すみません。道路が少し混んでまして」
「こっちも予定があるんだよ。毎回毎回、困るんだよね」
その声は、助手席の美香にも聞こえていた。
美香は窓を少し開けた。
「お父さんは安全運転してます」
男が驚いて、美香を見る。
「え?」
「急いで事故したらどうすると? 荷物が壊れたら困るやろ? 人にぶつかったらもっと困るやろ? だからお父さんはちゃんとゆっくり来たんです」
和正は目を見開いた。
「美香、窓閉めなさい」
だが、男は何も言い返せなかった。
周囲にいた人たちも、少し気まずそうにしている。
美香は続けた。
「早く来てほしいなら、早く来ても大丈夫な道と時間を作ってください。お父さんだけ急がせたら危ないです」
子どもの言葉だった。
けれど、まっすぐだった。
男は少しだけ表情を緩めた。
「……そうだね。ごめんね」
美香はこくんと頷いた。
「安全が一番です」
和正は荷物を降ろし終えると、深く頭を下げた。
「すみません、娘が」
「いや……こっちも言い方が悪かったです」
トラックに戻ると、和正はしばらく黙っていた。
「父ちゃん、怒った?」
「いや」
「ごめんなさい」
「怒っとらん。ただ、びっくりした」
「だって、お父さん悪くないもん」
和正は、ハンドルを握ったまま小さく笑った。
「美香」
「うん」
「ありがとう」
美香は少し照れた。
「でも窓開けたら危ない?」
「危ない時もある。だから次からは父ちゃんに言ってからな」
「うん」
帰り道、和正はいつもより丁寧に運転した。
赤信号では止まる。
黄色では無理に進まない。
横断歩道の前では減速する。
左折の前には、何度も確認する。
助手席の美香が見ている。
それだけで、和正は背筋が伸びた。
「父ちゃん」
「なんや?」
「トラックの仕事、かっこいいね」
和正は少し黙った。
それから、照れ隠しのように咳払いした。
「そうか?」
「うん。荷物届けるし、安全運転するし」
「そっか」
和正は前を見たまま、少しだけ目を細めた。
この仕事を、ちゃんと続けよう。
娘に誇れる運転をしよう。
その時、和正は確かにそう思っていた。
会社に戻ると、同僚たちが声をかけた。
「どうやった、美香ちゃん。父ちゃんの仕事」
「かっこよかったです」
「おお、よかったな黒木」
和正は笑った。
「今日は助手に助けられた」
「なんや、もう即戦力か」
美香は胸を張った。
「安全第一です」
また事務所に笑いが起きた。
その日の夕方。
家に帰った美香は、香織に何度も話した。
「父ちゃんね、信号でちゃんと止まるとよ。黄色は急げじゃないって」
「そうやね」
「あとね、急がせる人に言った。事故したらだめって」
香織は驚いて和正を見た。
「ほんと?」
「……ちょっとな」
「美香、すごいやん」
美香は得意げに笑った。
和正は缶ビールを一本開けながら、静かに言った。
「ほんと、安全第一やな」
その言葉は、まだ黒木家の中で生きていた。
父は安全運転を語り、娘はそれを信じていた。
けれど、数年後。
同じ父が、酒が残ったままハンドルを握る。
この日の助手席で交わされた言葉は、美香の記憶に長く残る。
なぜなら、この日、美香は確かに見ていたからだ。
安全を語る父の横顔を。
そして、その父がいつか、自分の言葉を裏切ることになるからだ。
次回予告
父のトラックに乗り、安全運転の大切さを学んだ美香。
和正は娘に誇れる仕事をしようと、確かに思っていた。
だが、仕事の疲労と家計の不安は消えない。
少しずつ増える酒。
職場の年末ムード。
そして、近づく忘年会。
次回、第六話
「缶コーヒーの匂い」
父の仕事の匂いは、まだ美香にとって安心の匂いだった。




