↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帰る場所~光の指す方へ  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
80/85

2人の音・福岡高校

第八十二話

「二人の音」


 アキラの教室では、いじめに対する本格的な対応が始まっていた。


 担任。


 学年主任。


 校長。


 祖父母の安三郎と静子。


 そして、みらいのたね。


 これまでアキラが一人で抱えてきたことを、今度こそ大人たちが一緒に背負う。


 学校側は、関係する生徒への聞き取りを始めた。


 いつから続いていたのか。


 誰が中心だったのか。


 周囲は何を見ていたのか。


 教師は気づけなかったのか。


 そして、アキラ本人が安心して学校へ来られるためには何が必要なのか。


 担任は、アキラに無理をさせない方針をはっきり伝えた。


「教室に入りづらい日は、別室を使っていいからね」


 アキラは小さく頷いた。


「はい」


「途中でしんどくなったら、外に出てもいい」


「はい」


「学校へ来ることそのものが難しい日があっても、それで君が悪いわけじゃない」


 アキラは少し迷ってから、


「……ありがとうございます」


 と答えた。


 校長も同席していた。


「今まで一人で抱えさせてしまったことは、学校として重く受け止めています」


 アキラは黙って聞いていた。


「これからは、一人にしません」


 その言葉を聞いても、すぐに安心できたわけではなかった。


 頭では分かっている。


 大人が動いてくれた。


 祖父母もいる。


 みらいのたねもある。


 それでも、教室の前まで来ると足が止まる。


 後ろで誰かが笑えば、自分のことを笑っているように聞こえる。


 急に名前を呼ばれただけで、身体がこわばる。


 傷ついた心は、「今日から安全です」と言われたからといって、翌日には元通りになるわけではない。


 そのことを、美香はよく知っていた。


 自分も、そうだったからだ。


 みらいのたねに保護されたあとも、怖さは消えなかった。


 大きな声を聞けば身体が固くなった。


 夜になると過去を思い出した。


 安全な場所にいるはずなのに、心だけはまだあの日々から抜け出せなかった。


 だから美香は、アキラに簡単な言葉をかけなかった。


「もう大丈夫」


 とも、


「気にせんでいい」


 とも言わなかった。


 ただ、気にかけていた。


 ある日の放課後。


 美香が音楽室の前を通ると、中からトランペットの音が聞こえた。


 しかし。


 ぷぅ――。


 途中で音が揺れる。


 少し間を置いて、もう一度。


 今度も途中で途切れた。


 美香は足を止めた。


 少し迷ってから、扉を開ける。


「アキラ君?」


 窓際にいたアキラが振り返った。


「あ……美香さん」


 少し驚いた顔だった。


 手にはトランペット。


「まだ残っとったと?」


「はい。ちょっとだけ吹いてから帰ろうかなと思って」


 美香はアキラの顔を見る。


「うまくいかん?」


 アキラは少し恥ずかしそうに笑った。


「……分かります?」


「なんとなく」


 アキラはトランペットを見る。


「前は、もう少し普通に音が出よったんですけど」


「うん」


「最近、吹こうとすると息が震えるというか……」


 少し間が空く。


「なんか、うまくいかんとです」


 美香は音楽室へ入り、ピアノの前へ座った。


「じゃあ、一緒にやってみる?」


 アキラが目を丸くする。


「え?」


「うちがピアノ弾くけん、アキラ君は好きに吹いてみたら?」


「でも……」


「でも?」


 アキラは少し視線を落とした。


「変な音になるかもしれんです」


 美香は少し笑った。


「変な音でもよかやん」


「いいんですか?」


「音楽って、全部きれいに出さんといかんわけやないやろ?」


 アキラは少し考える。


「……そうですね」


 美香が鍵盤を一音鳴らした。


 ぽん。


 柔らかな音。


「ほら」


 アキラは迷いながらも、トランペットを構えた。


 息を吸う。


 一音。


 少し震えた。


 アキラはすぐに楽器を下ろそうとした。


 けれど。


 美香が、その音に合わせるように和音を重ねた。


 アキラが止まる。


 美香は何も言わない。


 もう一度。


 アキラが吹く。


 美香が返す。


 高い音。


 低い音。


 短い音。


 長い音。


 譜面はない。


 決められた曲でもない。


 アキラの音に、美香がピアノで答える。


 美香の音に、アキラがトランペットで返す。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 アキラの音から震えが減っていった。


 やがて、短い旋律になった。


 美香はその旋律を拾う。


 同じ音をピアノで返す。


 アキラがもう一度吹く。


 今度はさっきより、ずっときれいな音だった。


 数分後。


 アキラが楽器を下ろした。


「……出ました」


 美香が振り返る。


「出たね」


 アキラは、少し嬉しそうだった。


「久しぶりに、ちゃんと出た気がします」


「よかった」


「美香さんのおかげです」


「うち、ピアノ弾いただけよ」


「でも、一人やったら途中でやめとったと思います」


 その言葉に、美香は少しだけ表情を変えた。


 アキラは続ける。


「最近、家でも吹こうとしたんですけど」


「うん」


「音が出んと、学校のこととか思い出してしまって」


 言葉を探しながら話す。


「楽器まで嫌いになったらどうしようって思ってました」


 美香は鍵盤を見つめながら言った。


「嫌になってもいいと思うよ」


 アキラが顔を上げる。


「え?」


「一回、吹きたくないって思ってもいいやん」


「……はい」


「ずっと好きでおらんといかんって決まりもないし」


 美香は、もう一音鳴らす。


「でも、また吹きたいって思ったら、その時また吹けばいい」


 アキラは静かに聞いていた。


「怖い日は、怖い音でもいいし」


「悲しい日は、悲しい音でもいい」


「きれいに吹けん日があってもいいと思う」


 アキラは少しだけ笑った。


「美香さん、音楽の先生みたいですね」


 美香も笑う。


「まだ中学生よ」


「あ、そうでした」


「忘れんで」


 アキラも少し笑った。


 さっきまで重かった音楽室の空気が、ほんの少しだけ軽くなった。


 アキラがもう一度トランペットを持ち上げた。


「美香さん」


「ん?」


「さっきのやつ、もう一回やってもいいですか?」


「いいよ」


「最初のところ、ちょっと覚えとるんです」


「ほんと?」


 アキラが短いフレーズを吹く。


 美香がそれを聞きながら、ピアノで和音をつけた。


「こんな感じ?」


「はい。そんな感じです」


「じゃあ、次こうしてみる?」


 美香が少し旋律を変える。


 アキラが合わせる。


 二人とも、さっきより少し夢中になっていた。


 美香が笑う。


「これ、曲になりそうやね」


 アキラが少し驚く。


「本当ですか?」


「うん。短いけど」


「じゃあ……」


 アキラは少し考えた。


「名前、つけます?」


「もう?」


「仮の名前です」


 美香は笑う。


「何にする?」


 アキラは少し照れたように言った。


「……『二人の音』とか」


 美香が一瞬止まる。


「そのまんまやね」


「やっぱり変ですか?」


「いや」


 美香は小さく笑った。


「分かりやすくて、よかと思う」


「じゃあ、それで」


「うん。仮タイトルね」


「はい」


 まだ、この時の二人には未来など見えていなかった。


 この先、同じ音楽の道を歩くことも。


 互いに人生を支え合うようになることも。


 夫婦になることも。


 春介と春海という双子の親になることも。


 何も知らない。


 今はまだ。


 美香は、少し年上の知り合い。


 アキラは、美香を頼りにしている年下の少年。


 それだけだった。


 ただ。


 この日の放課後。


 二人で作った小さな旋律だけは、確かに二人のものだった。


 楽器を片付けたあと。


 二人は校門まで一緒に歩いた。


 アキラが少し控えめに言う。


「美香さん」


「なに?」


「明日、教室行ってみようと思います」


 美香がアキラを見る。


「無理せんでよ?」


「はい」


「怖かったら、途中で出てもよかとよ」


「先生にもそう言われました」


「なら、ほんとに無理せんこと」


 アキラは頷いた。


「はい」


 少し歩く。


 そしてアキラが言った。


「美香さん」


「ん?」


「今日は、ありがとうございました」


「何が?」


「いろいろです」


 美香は少し照れた。


「うち、そんな何もしてないよ」


「でも、話を聞いてもらえるだけでも助かるとです」


 美香はアキラの横顔を見る。


 その言葉が、なぜかいつもより嬉しかった。


「そっか」


「はい」


 美香は前を向いた。


 胸の辺りが、少しだけ変な感じがする。


 アキラが元気になれば嬉しい。


 学校へ来れば安心する。


 今日、音がちゃんと出た時も、自分のことのように嬉しかった。


 でも。


 それが何なのか。


 まだ美香自身にもよく分からなかった。


 恋だと決めるには、まだあまりにも幼い。


 ただの心配とも、少し違う。


 そんな曖昧な気持ちだった。


「じゃあ、美香さん。また明日」


「うん。また明日ね、アキラ君」


 分かれ道でアキラが頭を下げる。


 少し歩いてから、美香は振り返った。


 アキラの背中が小さくなっていく。


 美香は、なぜかもう一度声をかけたくなった。


 でもやめた。


「……なんやろ」


 自分でも分からない。


 ただ。


 明日も学校に来てくれたらいいな。


 そう思った。


 翌朝。


 アキラは教室の前に立っていた。


 少し緊張した顔。


 担任がそばにいる。


「無理そうなら、すぐ別室へ行こう」


「はい」


 アキラは小さく頷く。


 そして廊下の向こうを見る。


 美香がいた。


 目が合う。


 美香が小さく手を振る。


 アキラも少しだけ笑って、軽く頭を下げた。


 それから、自分の足で教室へ入った。


 怖さは消えていない。


 問題も終わっていない。


 傷も残っている。


 それでも。


 昨日より、一歩だけ前へ進んだ。


 そして、美香とアキラの間にも。


 まだ名前のつかない、小さな何かが芽生え始めていた。


 二人の音と一緒に。


第八十二話 終



 美香は、音楽の道に進むことを選んだ。


 博多南中学校を卒業する頃には、その気持ちはもう揺らがなかった。


「うち、もっと音楽ば学びたい」


 小倉家の食卓で、美香はそう言った。


「トロンボーンも、歌も、ちゃんと勉強したか。誰かに届く音を、もっと出せるようになりたい」


 優馬は静かに頷いた。


「美香が決めた道なら、応援するたい」


 美鈴も笑った。


「福岡高校音楽科。美香なら行けるよ」


 光子と優子は、両手を上げた。


「美香おねーちゃん、音楽高校!」


「かっこよか!」


 そして春。


 美香は福岡高校音楽科へ進学した。


 新しい制服。

 新しい教室。

 音楽に本気で向き合う仲間たち。


 最初は不安もあった。


 でも、音楽室に入った瞬間、美香は思った。


 ここで学びたい。


 ここで、もっと強くなりたい。


 一方、アキラは中学二年生になっていた。


 吹奏楽部ではトランペットの実力をぐんぐん伸ばし、さらにテナーサックスにも挑戦し始めていた。


「アキラ、最近音変わったね」


 顧問の先生にそう言われ、アキラは少し照れた。


「もっと上手くなりたいんです」


「理由は?」


 アキラは少し考えてから答えた。


「一緒に演奏したい人がいるけん」


 その人の名前は、言わなかった。


 でも、先生にはなんとなく伝わった。


 休日になると、美香とアキラは時々会った。


 久留米の農場。

 みらいのたね。

 小倉家。

 そして、スタジオや公園。


 二人は楽器を持ち寄って、ヘッショをした。


 美香のトロンボーン。

 アキラのトランペット。


 時にはサックスも加わる。


 音はまだ完璧ではない。


 でも、二人で吹くと、不思議と息が合った。


 ある夕方。


 福岡市内の小さな練習室で、二人は「ルパン三世のテーマ」を合わせていた。


 美香が笑う。


「アキラくん、そこの入り、かっこよかった」


 アキラは顔を赤くした。


「美香さんのトロンボーンの方が、ずっとすごいです」


「そんなことなかよ」


「あります」


 二人は少し黙った。


 楽器を置く。


 練習室の窓から、夕焼けが差し込んでいた。


 アキラが、小さく言った。


「美香さん」


「ん?」


「僕、美香さんのことが好きです」


 美香の息が止まった。


 その言葉は、前から心のどこかで待っていたものだった。


 でも、いざ聞くと、胸がいっぱいになって、すぐには返事ができなかった。


 アキラは慌てた。


「あ、急にごめんなさい。困らせるつもりじゃ――」


「うちも」


 美香が言った。


 声は震えていた。


「うちも、アキラくんのことが好き」


 アキラの目が大きくなる。


「本当ですか」


「うん」


 美香は少し笑った。


「いつからかは、ようわからん。でも、アキラくんと話すと安心する。音を合わせると、もっと吹きたくなる。会える日が近づくと、ちょっと落ち着かん」


 アキラは、真っ赤になった。


「僕もです」


 二人は、しばらく何も言わなかった。


 ただ、窓の外の夕焼けを見ていた。


 その沈黙は、怖くなかった。


 やさしい沈黙だった。


 美香はトロンボーンケースに手を置いた。


「これからも、一緒に音楽してくれる?」


 アキラは、まっすぐ頷いた。


「はい。ずっと」


 その約束は、派手な告白ではなかった。


 でも、美香にとっては、とても大きなものだった。


 かつて、幸せになっていいのかわからなかった少女が。


 今、好きな人と音を重ね、未来を約束している。


 その夜、小倉家へ帰った美香は、顔が真っ赤だった。


 光子が即座に見抜いた。


「美香おねーちゃん、またトマト!」


 優子もにやっとした。


「これは久留米産やね」


 美香は慌てた。


「二人とも、なんでわかると!?」


 優馬が新聞の陰から言った。


「父ちゃんにもわかるぞ」


 美鈴が笑う。


「美香、よかったね」


 美香は、少しだけ俯いた。


 そして、小さく頷いた。


「うん」


 福岡高校音楽科で始まった、美香の新しい日々。


 中学二年になり、音を磨くアキラ。


 二人の音は、まだ若く、まだ不安定だった。


 けれど確かに、同じ未来へ向かって響き始めていた。


 次回予告


 福岡高校音楽科へ進学した美香。


 中学二年になり、吹奏楽部で実力を伸ばすアキラ。


 二人は時々ヘッショを重ね、互いへの想いを確かめ合う。


 トロンボーンとトランペット。


 そしてサックス。


 二人の音は、少しずつ未来の約束へ変わっていく。


 次回、第八十三話

「夕焼けの告白」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。