裁かれる親
第七十一話
「裁かれる親」
和正と香織が逮捕された日から、美香の生活はまた少し変わった。
通学路には、学校と警察の見守りが入った。
小倉家の周辺にも、しばらく警戒が続いた。
美香のスマホには、緊急連絡先が改めて登録された。
美香は安全になった。
少なくとも、形の上では。
けれど、心はそう簡単には落ち着かなかった。
夜になると、あの日の通学路がよみがえる。
角を曲がった先にいた和正と香織。
伸びてくる手。
「帰るぞ」という声。
美鈴の腕の中に飛び込んだ瞬間。
美香は布団の中で何度も目を覚ました。
そのたびに、隣で寝ている光子と優子が起きる。
「美香おねーちゃん、大丈夫?」
「ここ、小倉家たい」
美香は小さく頷く。
「うん……小倉家」
それでも、今度は違った。
美香は言えたのだ。
うちは、もう小倉家の子たい。
その言葉は、怖さの中で出た。
震えながら出た。
けれど、確かに自分の口から出た。
刑事手続きは進んでいった。
警察の取り調べ。
児童相談所の記録。
城南小学校と城南中学校、博多南中学校の記録。
みらいのたねの記録。
スマホに残された人格否定のメッセージ。
支援金や手当の使途への疑い。
そして、接近禁止を破って美香を連れ去ろうとした事実。
積み重なったものは、もう「家庭の問題」という言葉では隠せなかった。
美香は、何度か事情を聞かれることになった。
もちろん、無理に話させないよう配慮された。
美鈴が隣に座り、優馬が少し後ろにいる。
児童相談所の担当者も同席した。
「話せるところだけでよかよ」
美鈴が言う。
「怖くなったら止めていいけん」
美香は頷いた。
最初は声が震えた。
「食べるなって……言われました」
そこから、少しずつ話した。
文房具を買ってもらえなかったこと。
靴が痛かったこと。
服が合わなかったこと。
学校で臭いと言われたこと。
生理用品を十分に用意してもらえなかったこと。
殴られたこと。
蹴られたこと。
死にたいと思ったこと。
那珂川の欄干に立ったこと。
言葉にするたび、胸が痛んだ。
でも、美鈴の手がそばにあった。
優馬の声があった。
「美香、よう話せた」
そのたびに、美香は少しずつ息を取り戻した。
やがて、刑事裁判の日が来た。
美香は直接法廷に立つことは避けられた。
証言は、記録や専門家の意見、関係者の証言で補われた。
それでも、美香は別室で裁判の進行を知った。
和正は最初、言い訳を重ねた。
「生活が苦しかった」
「しつけのつもりだった」
「娘が大げさに言っている」
「親子の問題だった」
その言葉を聞いた時、美香は膝の上で手を握りしめた。
身体が震えた。
美鈴がすぐに手を重ねる。
「大丈夫。あれは美香のせいやない」
優馬も静かに言った。
「言い訳たい」
香織は泣いていたという。
だが、その涙もまた、美香を守るものではなかった。
裁判では、村瀬由紀も証言した。
城南小学校時代の美香の様子。
痛そうな靴。
痩せた身体。
おびえた目。
和正がパチンコ屋に入っていく姿。
そして、支援が美香へ届いていなかった疑い。
田上先生も、保健室の先生も、みらいのたねの理事長も証言した。
ひとつひとつの声が、美香の沈黙の代わりに法廷へ届いた。
判決の日。
和正と香織には、刑事責任が認められた。
接近禁止違反、連れ去り未遂、虐待に関する行為。
重い処分が下された。
さらに民事裁判では、美香に対する慰謝料と、搾取・流用された支援に関する返還責任も認められる方向で進んでいった。
完全な勝利という言葉は、美香にはしっくりこなかった。
過去が消えるわけではない。
痣の記憶も、空腹も、夜の足音も、那珂川の欄干も、なかったことにはならない。
でも、ひとつだけ大きなことがあった。
法廷が言ったのだ。
美香が悪いのではない、と。
あれは虐待だった、と。
親だから許されるものではない、と。
判決を聞いた夜。
小倉家の食卓は静かだった。
優馬が味噌汁を置きながら言った。
「美香、今日はよう頑張ったね」
美香は首を振った。
「うちは……あんまり何もしてなか」
美鈴が言った。
「生きて、ここまで来た。それだけで十分すごか」
光子が頷く。
「美香おねーちゃん、勝った!」
優子が少し考えてから言う。
「勝ったっていうより、ちゃんと認められたんやと思う」
光子が首を傾げる。
「認められた?」
優子は美香を見た。
「美香おねーちゃんが悪くなかったって」
美香の目に涙が浮かんだ。
ずっと欲しかった言葉だった。
自分が悪いのではない。
それを、家族だけでなく、社会が認めてくれた。
その夜、美香は日記帳を開いた。
――裁判が終わった。
――怖かった。
――でも、私が悪かったんじゃないって、ちゃんと言われた。
――お母さんが手を握ってくれた。
――お父さんが、よう頑張ったって言ってくれた。
――光子と優子が、そばにおった。
美香は、少し手を止めた。
そして、最後に書いた。
――私は、もう黒木家には帰らない。
――私は、小倉美香たい。
ペンを置いた時、涙が一粒落ちた。
でもそれは、負けた涙ではなかった。
奪われた過去を取り戻すことはできない。
けれど、これからの人生を、奪われたままにはしない。
そのための一歩だった。
次回予告
刑事裁判、そして民事裁判。
和正と香織の行為は、家庭の問題ではなく虐待として裁かれる。
美香は知る。
自分が悪かったのではないことを。
そして、名前を胸に刻む。
小倉美香。
次回、第七十二話
「小倉美香の証」




