幸せになっていい
第六十六話
「幸せになっていい」
黒木和正の涙は、本物ではなかった。
少なくとも、美香を思って流した涙ではなかった。
みらいのたねへ電話をかけたあと、和正は古いアパートの畳の上で、苛立ったように煙草を灰皿へ押しつけていた。
「テレビ出たんやろ」
香織は黙っていた。
「出演料、出とるはずや」
和正の目は濁っていた。
「あいつ、歌って、テレビ出て、金もらっとるんやろ。俺らにも少しはもらう権利あるはずや」
香織が小さく言った。
「でも、美香はもう小倉家の子に……」
「血はこっちやろ!」
和正が怒鳴った。
「俺らが産んだんや。あいつが稼いだ金なら、少しくらいこっちに回すのが筋やろ」
香織は顔を伏せた。
あの電話。
涙声で「テレビを見た」と言った電話。
それは反省ではなかった。
みらいのたねのスタッフを欺き、情に訴え、美香へ近づくための手段だった。
和正にとって、美香はまだ娘ではなかった。
金を生む道具だった。
一方、小倉家では、次のテレビ出演依頼が届いていた。
トリプルピーチ★の『未来色ハーモニー』は大反響を呼び、子ども向け番組や朝の情報番組から出演相談が相次いでいた。
だが、優馬と美鈴は浮かれなかった。
「美香の心が一番たい」
美鈴はきっぱり言った。
「仕事を増やしすぎたらいかん。本人が楽しめる範囲で」
優馬も頷いた。
「お金の話も、透明にしよう。美香の出演料は美香のために管理する。勉強、音楽、将来のためや」
その言葉を聞いていた美香は、少し驚いた顔をした。
「うちのため……?」
「当たり前たい」
美鈴が言った。
「美香が頑張ったお金やけん、美香を守るために使うと」
美香は、しばらく黙っていた。
黒木家では、自分に支給されるお金は、自分のために使われなかった。
それどころか、食べることさえ責められた。
でも小倉家では違う。
自分が得たものを、自分の未来のために使っていいと言われる。
それがまだ、少し怖かった。
「うち……幸せになってもいいと?」
美香が小さく言った。
リビングが静かになった。
美鈴は美香の前に座り、まっすぐ目を見た。
「いいに決まっとる」
優馬も言う。
「美香は幸せになってよか。誰にも遠慮せんでよか」
光子が勢いよく手を挙げた。
「幸せになってよか会議、満場一致!」
優子も頷いた。
「反対者なし!」
美香は涙ぐみながら笑った。
「会議になっとるん?」
「なっとる!」
光子が胸を張る。
「議長、光子!」
優子が言う。
「副議長、優子!」
優馬がこっそり手を挙げる。
「書記、俺?」
美鈴が即答する。
「却下」
美香は、声を出して笑った。
その笑いの中で、黒木和正の影が少しだけ遠のいた。
だが、完全には消えない。
その日の夜。
みらいのたねへ、また不審な電話が入った。
「美香の出演料について聞きたい」
職員はすぐに相手を確認し、対応を記録した。
和正だった。
「親として、何か受け取る権利が――」
職員は遮った。
「小倉美香さんに関する金銭・出演契約・生活情報について、あなたへお伝えすることはありません」
「俺は実の父親やぞ!」
「現在、接近禁止措置もあります。今後もこのような連絡が続く場合、関係機関へ共有します」
電話は荒々しく切れた。
その記録は、すぐに児童相談所、警察、小倉家へ共有された。
美香には、すぐには伝えなかった。
守るために必要な情報は大人たちが受け止める。
美香に背負わせない。
それが、小倉家とみらいのたねの共通した考えだった。
翌日。
美香は、光子と優子と一緒に歌の練習をしていた。
『未来色ハーモニー』のサビ。
三人の声が重なる。
美香の声は、前より少しだけ伸びていた。
怯えではなく、願いを乗せる声になっていた。
練習が終わると、光子が言った。
「美香おねーちゃん、もっと笑って歌えるようになった!」
優子も頷いた。
「声が前より明るかよ」
美香は照れた。
「そうかな」
「そうたい!」
美鈴は、その様子を見ながら思った。
守るとは、ただ危険から遠ざけることだけではない。
この子が、自分の力で笑い、歌い、未来を選べるように支えること。
それが、本当に守るということなのだと。
美香はまだ、幸せになっていいと完全には信じきれていない。
けれど、この家では毎日のように言ってくれる。
食べていい。
泣いていい。
笑っていい。
歌っていい。
幸せになっていい。
その言葉が、少しずつ美香の中に根を張っていく。
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次回予告
黒木和正の涙は、反省ではなかった。
狙いは、美香の出演料。
みらいのたねと小倉家は、和正の接触を完全に警戒する。
一方、美香は少しずつ「幸せになっていい」という言葉を受け取り始める。
だが、和正と香織は次の手段に出る。
次回、第六十七話
「金の亡者」




