黒木和正の涙
第六十五話
「黒木和正の涙」
『未来色ハーモニー』の反響は、想像以上だった。
テレビ出演の翌朝から、みらいのたねにも、小倉家にも、番組宛にも感想が届いた。
「歌詞で泣いた」
「三人の声が優しかった」
「真ん中のお姉ちゃんの声、胸に残る」
「トリプルピーチ★、応援したい」
白金荘のリビングでは、光子と優子が大はしゃぎしていた。
「美香おねーちゃん、大人気たい!」
「未来色ハーモニー、すごか!」
美香は照れながら、スマホの画面を見ていた。
「……ほんとに、うちの声でよかったとかな」
優馬が笑った。
「よかったけん、みんな反応しとうとよ」
美鈴も頷いた。
「美香の声は、ちゃんと届いとる」
その言葉に、美香は小さく頷いた。
けれど、心の奥にはまだ戸惑いがあった。
自分が幸せになっていいのか。
笑っていいのか。
歌っていいのか。
応援されていいのか。
黒木家で浴びせられた言葉は、まだ完全には消えていなかった。
そんな午後。
みらいのたねに一本の電話が入った。
スタッフの顔が、少し強張る。
「……黒木和正さんからです」
空気が止まった。
美香は、その場にいなかった。
理事長は静かに電話を取った。
「はい。みらいのたねです」
電話の向こうの声は、以前のように怒鳴ってはいなかった。
かすれていた。
「……美香は、そこにおるんか」
「現在の所在についてはお答えできません」
「テレビ……見た」
理事長は黙って聞いた。
「歌っとった。あいつが……笑っとった」
和正の声が震えた。
「俺は……何をしとったんやろな」
それは、涙声だった。
だが、理事長は簡単には同情しなかった。
涙を流したからといって、過去が消えるわけではない。
美香の空腹も、痣も、夜の恐怖も、言葉の傷も、消えない。
和正は続けた。
「俺が……あいつを壊したんか」
理事長は、静かに答えた。
「美香さんは、あなた方の行為によって深く傷つきました」
電話の向こうで、息を呑む音がした。
「会わせてくれ」
「できません」
「一言だけでも……」
「できません」
理事長の声は揺れなかった。
「美香さんの安全と心の回復が最優先です。あなたが涙を流していることと、美香さんに会う権利があることは、別の話です」
和正は黙った。
長い沈黙のあと、低い声で言った。
「……そうか」
そして、電話は切れた。
理事長は受話器を置き、しばらく目を閉じた。
その日の夕方、優馬と美鈴に連絡が入った。
美香へ伝えるかどうか。
それは慎重に話し合われた。
美鈴は言った。
「今すぐ伝える必要はなかと思う。美香の心がまだ揺れやすいけん」
優馬も頷いた。
「和正が泣いたからって、美香が背負う話やなか」
美鈴は強く言った。
「謝罪したいなら、まず責任を取ることたい。美香に近づくことやない」
その夜、美香は何も知らず、光子と優子と一緒に『未来色ハーモニー』の録画を見ていた。
光子が画面の自分に向かって手を振る。
「みっちゃん、上手!」
優子が冷静に言う。
「自分で言うと?」
美香は笑った。
「二人とも上手やったよ」
優馬がぼそっと言う。
「俺も心の中でコーラスしとった」
美鈴が即座に突っ込む。
「放送事故になるけん、心の中だけで正解たい」
美香も笑った。
「お父さん、出なくてよかったね」
「娘まで!」
リビングに笑い声が広がる。
美香は、その笑いの中にいた。
もう、黒木和正の涙に引き戻されてはいけない。
彼が何を思おうと、美香の人生は美香のものだった。
その夜、美香は日記に書いた。
――歌った。
――笑った。
――みんなが、よかったって言ってくれた。
――まだ少し怖いけど、私は歌っていい。
そして最後に、もう一行。
――幸せになっても、いいのかな。
答えはまだ出ない。
でも、その問いを日記に書けるようになったこと自体が、美香にとって大きな一歩だった。
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次回予告
黒木和正からの電話。
涙声の後悔。
だが、その涙は美香の傷を消すものではない。
小倉家とみらいのたねは、美香を守るため、慎重に距離を保つ。
一方、トリプルピーチ★には次の出演依頼が届く。
次回、第六十六話
「幸せになっていい」




