九州大会へ
第六十話
「九州大会へ」
夏の終わり。
博多南中学校吹奏楽部は、九州大会へ向けて最後の追い込みに入っていた。
演奏曲は、県予選と同じ。
「ルパン三世のテーマ ジャズバージョン」
美香にとって、それは特別な曲だった。
あの日、みらいのたねで初めて聴いた曲。
音楽は怖くない。
音楽は自由だ。
音楽は、人を殴らない。
そう教えてくれた曲。
その曲を、今度は九州大会の舞台で演奏する。
美香は、トロンボーンを構えた。
「黒木……いや、小倉。そこ、前より音が太くなったな」
顧問の先生が言った。
美香は少し驚いて顔を上げた。
「本当ですか」
「うん。音に芯が出てきた」
先輩も頷く。
「美香ちゃん、最近めっちゃ伸びてる」
美香は、照れくさそうに笑った。
「もっと……届く音にしたいです」
その言葉に、音楽室の空気が少しだけ静かになった。
届く音。
美香がそう言う時、それはただ上手く吹きたいという意味ではなかった。
かつて自分を救ってくれた音のように。
誰かの胸に、ほんの少しでも灯りをともせる音。
それを目指していた。
九州大会当日。
会場の空気は、県予選とはまったく違った。
各県を勝ち上がってきた学校。
磨き上げられた音。
張りつめた緊張。
美香の手は震えていた。
だが、隣の先輩が笑った。
「大丈夫。ルパンは逃げ足速いけど、うちらの音は逃げんよ」
美香は思わず笑った。
「なんですか、それ」
「緊張ほぐし」
「ちょっとほぐれました」
本番。
ドラムが鋭く入り、ベースが跳ねる。
トランペットが空気を切り裂き、サックスが色をつける。
そして、トロンボーン。
美香は、息を深く吸った。
怖さはあった。
でも、もう怖さだけではなかった。
音の中に入る。
仲間の音を聴く。
自分の音を重ねる。
県予選よりも、音は前に出ていた。
迫力があった。
それでいて、細かなリズムの噛み合わせも乱れない。
ジャズの自由さと、吹奏楽としての精密さ。
博多南中学校の演奏は、九州大会の会場を一気に引き込んだ。
最後の音が鳴り終わった瞬間。
一瞬の沈黙。
そして、大きな拍手。
美香は、息を吐いた。
やりきった。
結果発表。
博多南中学校は、全国大会への出場権を獲得した。
音楽室ではなく、会場のロビーで、部員たちは涙を流して喜んだ。
「全国だ!」
「やった!」
「美香ちゃん、全国行くよ!」
美香は、最初、何も言えなかった。
全国大会。
その言葉が遠すぎた。
ほんの数ヶ月前、自分は那珂川の欄干に立っていた。
生きることを諦めかけていた。
それなのに今、トロンボーンを持って全国大会へ行く。
美香は、トロンボーンケースを抱きしめるようにして泣いた。
そして、その知らせは山口にも届いた。
山口第一中学校吹奏楽部も、中国大会を突破し、全国大会への出場権を獲得していた。
温也と郷子も、全国の舞台へ進む。
「博多南も全国か」
温也がスマホを見ながら言った。
郷子が嬉しそうに笑う。
「美香ちゃん、頑張ったんやね」
「宇都宮で会えるな」
「うん。ええ演奏、しよう」
温也はトロンボーンを軽く叩いた。
「ルパン対決やな」
郷子がすぐに言う。
「対決やなくて、共演する気持ちでいこうや」
「ええこと言うやん」
「温也がすぐ勝負にしたがるけぇ」
「いや、燃えるやん」
「燃えるのはええけど、あじゃぱーせんようにね」
「本番で言うたら伝説やな」
「やめて」
全国大会は、栃木県宇都宮市で開かれた。
会場には、全国から選ばれた中学校吹奏楽部が集まっていた。
美香は、博多南中の仲間たちと一緒に会場へ入り、圧倒されていた。
広いホール。
ずらりと並ぶ楽器ケース。
緊張した生徒たち。
張りつめた空気。
その中で、懐かしい声がした。
「美香ちゃん!」
振り向くと、温也と郷子がいた。
温也は笑顔で手を振り、郷子は少し控えめに、でも嬉しそうに近づいてきた。
「久しぶりやな」
温也が言った。
美香は頭を下げた。
「お久しぶりです」
郷子が微笑む。
「美香ちゃん、全国まで来たんやね。すごいっちゃ」
美香は首を振った。
「私だけじゃなくて、みんなのおかげです」
温也は頷いた。
「それが吹奏楽や。ひとりで鳴らすんやなくて、みんなで鳴らす」
郷子も言った。
「今日、いい演奏しようね」
「はい」
美香はトロンボーンケースを握った。
山口第一中学校も、博多南中学校も、演奏曲は同じだった。
ルパン三世のテーマ ジャズバージョン。
同じ曲でも、音は違う。
山口第一中学校のルパンは、温也のトロンボーンが軽やかに跳ね、郷子たちの音が明るく支えた。
どこか人懐っこく、スタジアムで笑い合う二人の空気がそのまま音になったようだった。
会場が沸いた。
美香は袖で聴きながら、胸を熱くした。
やっぱり、すごい。
あの音が、自分をここまで連れてきてくれた。
そして、博多南中学校の出番。
美香は、ステージに立った。
客席は暗い。
でも、怖くはなかった。
遠くで、優馬と美鈴が見ている。
光子と優子も、きっと身を乗り出している。
みらいのたねの人たちも。
村瀬由紀も、千夏も。
そして、山口第一中のみんなも。
美香は息を吸った。
ドラムが入る。
ベースが跳ねる。
管楽器が一気に立ち上がる。
博多南中学校のルパンは、県大会、九州大会よりもさらに進化していた。
迫力。
精密さ。
遊び心。
そして、どこか必死な祈り。
美香のトロンボーンは、もうただついていくだけの音ではなかった。
低く、太く、前へ出る。
それでも独りよがりではなく、周囲の音と混ざる。
あの日、みらいのたねで聴いた音を、今度は自分たちの音として響かせる。
中盤。
トロンボーンが前へ出る。
美香は息を入れた。
音が伸びる。
ホールの空気に乗る。
その瞬間、美香の頭に、ほんの一瞬だけ那珂川の欄干が浮かんだ。
消えたいと思った夜。
冷たい風。
欄干を握った手。
そこから、今ここへ。
美香は音を鳴らした。
生きている音だった。
最後の決め。
全員の音がひとつになる。
指揮者の手が止まる。
沈黙。
そして、割れるような拍手。
美香は、立ったまま震えていた。
演奏が終わった。
吹ききった。
全国の舞台で。
結果発表。
会場には、独特の緊張が漂っていた。
金賞、銀賞、銅賞。
そして、その中から最優秀賞が発表される。
美香は、ほとんど現実感がなかった。
隣の先輩が手を握ってくれている。
顧問の先生は前を見つめている。
温也と郷子も、少し離れたところで結果を待っていた。
アナウンスが響く。
「最優秀賞――」
会場が静まる。
「福岡県代表、博多南中学校」
一瞬、美香は理解できなかった。
拍手が起きる。
部員たちが叫ぶ。
「やった!」
「最優秀賞!」
「博多南だ!」
美香は、ぽかんとしていた。
自分たちのことだと、すぐにはわからなかった。
先輩が美香の肩を掴む。
「美香、やったよ!」
「え……」
「金賞の中でも、最優秀賞とったよ!」
その瞬間。
意味が、美香の中に落ちてきた。
自分たちが。
博多南中学校が。
ルパン三世ジャズバージョンで。
全国大会の最優秀賞を獲った。
美香の視界が揺れた。
涙が一気に溢れた。
「……私たちが……?」
「そう!」
「本当に……?」
「本当に!」
美香は、その場に崩れるように泣いた。
数ヶ月前まで、生きることを諦めかけていた。
死ぬことを考えていた。
自分なんかいない方がいいと思っていた。
でも今。
自分の音が、仲間の音と一緒に認められた。
生きてここまで来たことが、音になって届いた。
温也と郷子が駆け寄ってきた。
温也は泣き笑いの顔だった。
「美香ちゃん、すごいやん!」
郷子も涙ぐんでいた。
「ほんまに、よう頑張ったね」
美香は泣きながら首を振った。
「私……私……」
言葉にならなかった。
温也が言った。
「音、届いとったで」
郷子も頷いた。
「美香ちゃんの音、ちゃんと届いとった」
その言葉で、美香はさらに泣いた。
優馬と美鈴も客席で泣いていた。
光子と優子は、最初何が起きたかわからず、周囲が喜ぶのを見てから大歓声を上げた。
「美香おねーちゃん、すごい!」
「ルパンで一番!」
美鈴は涙を拭きながら言った。
「美香……よう頑張ったね」
優馬は声を詰まらせた。
「うちの娘、すごか……」
小倉美香。
その名前で立った全国の舞台。
その音が、最優秀賞として認められた。
これは、ただの賞ではなかった。
生きることを諦めかけた少女が、もう一度前を向き、息を吹き込み、仲間と一緒に音を響かせた証だった。
美香はトロンボーンケースを抱きしめながら、泣き続けた。
でも、その涙は絶望の涙ではなかった。
生きていてよかったと、まだはっきり言えるほどではない。
けれど。
生きていたから、この音に出会えた。
生きていたから、この舞台に立てた。
生きていたから、仲間と泣けた。
その事実が、美香の中に、深く深く刻まれた。
次回予告
全国大会、宇都宮。
博多南中学校は「ルパン三世のテーマ ジャズバージョン」で最優秀賞を獲得する。
数ヶ月前、那珂川の欄干で命を絶とうとしていた美香。
その少女の音が、全国の舞台で認められた。
涙と拍手の中、美香は確かに一歩を踏み出す。
次回、第六十一話
「届いた音」




