三姉妹の朝
第五十八話
「三姉妹の朝」
白金荘の朝は、にぎやかだった。
「美香おねーちゃん、起きて!」
「朝ごはんだよ!」
光子と優子が布団の両側から声をかける。
美香は、ぼんやり目を開けた。
最初に聞こえたのは怒鳴り声ではなかった。
小さな双子の声。
台所から聞こえる美鈴の音。
優馬の少し間の抜けた鼻歌。
それは、普通の朝だった。
そして、美香にとっては、奇跡みたいな朝だった。
季節は少しずつ進み、博多南中学校吹奏楽部は県予選を突破した。
ルパン三世のテーマ、ジャズバージョン。
あの日、みらいのたねで美香の心を掴んだ曲。
その曲で、博多南中学校は九州大会へ進むことになった。
音楽室では歓声が上がった。
「九州大会だ!」
「やった!」
「美香ちゃん、やったね!」
美香はトロンボーンを抱えたまま、涙ぐんでいた。
「私……本当に出られたんですね」
先輩が笑う。
「出ただけじゃないよ。ちゃんと吹いたじゃん」
その言葉に、美香は小さく頷いた。
そして、もうひとつ大きな出来事があった。
養子縁組が成立した。
美香は、正式に小倉家の戸籍に入った。
小倉美香。
その名前を書いた時、美香はしばらくペンを止めた。
黒木ではない。
でも、美香であることは変わらない。
学校で、美香はクラスメイトと吹奏楽部の仲間に、きちんと経緯を話した。
全部ではない。
話せる範囲で。
それでも、声は震えた。
「名前が変わりました。小倉美香になります。でも……これからも、よろしくお願いします」
教室は静かだった。
やがて、隣の席の子が言った。
「話してくれてありがとう」
別の子も頷いた。
「名前が変わっても、美香は美香やん」
吹奏楽部でも、先輩が笑った。
「小倉美香でも、トロンボーンの美香ちゃんには変わらんよ」
その言葉に、美香は泣きそうになった。
「ありがとうございます」
帰る場所も、少しずつ本物になっていった。
白金荘へ帰ると、光子と優子が待っている。
「美香おねーちゃん、おかえり!」
「今日は新ネタあるよ!」
美香は靴を脱ぎながら笑った。
「また?」
光子が胸を張る。
「モレモレマン!」
優子が続ける。
「あんれまんまぁ〜!」
美香は固まった。
「……なにそれ」
「正義の味方!」
「たぶん!」
「たぶんなんだ」
さらに光子が両手を広げる。
「あじゃだらぱー!」
優子も負けじと叫ぶ。
「うにゃだらマンボー!」
光子が続ける。
「あじゃだらマンボー!」
美香は、もう訳がわからなかった。
でも、笑えた。
普通に笑えた。
意味がわからない。
でも怖くない。
むしろ、あたたかい。
その笑いが、少しずつ美香の日常になっていった。
最初は、どうしても言えなかった言葉もある。
お父さん。
お母さん。
優馬と美鈴は、急かさなかった。
「呼びやすい呼び方でよかよ」
「無理せんでいいけん」
そう言ってくれた。
でも、ある日の夕食。
優馬が味噌汁を飲みながら、妙なことを言った。
「この味噌汁、俺の人生みたいに深いな」
美鈴が即座に言う。
「いや、普通の味噌汁たい」
光子も続く。
「お父さん、また変なこと言った!」
優子も突っ込む。
「味噌汁に人生入れんで」
美香は、思わず笑った。
そして、自然に口から出た。
「お父さん、それはちょっと無理あるよ」
食卓が、一瞬止まった。
優馬が、美香を見る。
美鈴も、光子も、優子も。
美香自身も、自分で驚いていた。
お父さん。
今、そう呼んだ。
優馬は、泣きそうな顔で笑った。
「……うん。無理あったな」
美鈴が小さく目元を押さえる。
光子と優子は歓声を上げた。
「美香おねーちゃんが、お父さんって言った!」
「記念日!」
美香は顔を赤くした。
「そんな大げさにしないで……」
でも、嬉しかった。
それから少しずつ、美鈴のことも「お母さん」と呼べるようになった。
最初は照れくさくて、小さな声だった。
でも美鈴は、そのたびに必ず返事をしてくれた。
「なあに、美香」
その返事が、美香の心に積もっていった。
小倉家の朝。
小倉家の夕食。
小倉家の笑い声。
小倉家のツッコミ。
優馬がボケる。
美鈴が突っ込む。
光子と優子が追撃する。
そして美香も、いつの間にか一緒に突っ込んでいる。
「お父さん、それ絶対違う」
「優馬、それは盛りすぎ」
「お父さん、あじゃだらぱー認定!」
「うにゃだらマンボー行き!」
優馬は両手を上げる。
「家族全員から総攻撃やん!」
美鈴が笑う。
「それが小倉家たい」
美香も笑った。
かつて、食卓は怒鳴り声の場所だった。
今は、笑い声の場所になっている。
美香は、まだ過去を完全には忘れられない。
悪夢を見る夜もある。
大きな音に身体が震えることもある。
それでも、朝が来るたびに、少しずつ思えるようになっていた。
ここにいていい。
この家で、ご飯を食べていい。
笑っていい。
歌っていい。
そして、家族と呼んでいい。
小倉美香。
その名前は、美香にとって、新しい人生の始まりだった。
次回予告
養子縁組が成立し、美香は正式に小倉家の一員となった。
博多南中学校吹奏楽部は県予選を突破し、九州大会へ。
学校でも、部活でも、美香は受け入れられていく。
そして小倉家では、優馬のボケに美鈴・美香・光子・優子が総ツッコミ。
少しずつ増える笑い声。
次回、第五十九話
「小倉美香」




