もう帰らない
第五十六話
「もう帰らない」
警察が到着したあと、みらいのたねの玄関前は、しばらく騒然としていた。
和正はまだ苦悶の表情を浮かべ、床に座り込んでいた。
香織は青ざめた顔で、何度も同じことを繰り返していた。
「私たちは親なんです」
「娘に会いに来ただけです」
「連れ戻すつもりなんて……」
だが、その言葉はもう、誰にも届かなかった。
児童相談所。
警察。
みらいのたね。
学校。
市役所。
美香を守るための記録と証言は、すでに積み重なっていた。
和正と香織が、美香を取り戻そうとした理由が愛情ではなく、手当や支援金への執着であることも、周囲には見抜かれていた。
美香は、奥の部屋で震えていた。
光子と優子が、両側に座っている。
「美香おねーちゃん、大丈夫」
「もう連れていかせんけんね」
美香は、何度も頷いた。
怖かった。
けれど、今日は違った。
誰も美香を差し出さなかった。
誰も「親だから仕方ない」と言わなかった。
誰も「帰りなさい」と言わなかった。
その日、美香の中で、何かがはっきり変わった。
もう帰らない。
黒木家には、もう帰らない。
その後、美香を小倉家で迎える話が進み始めた。
児童相談所やみらいのたねとの協議を重ね、優馬と美鈴は、正式な受け入れに向けて動いた。
最初に美香へ話をしたのは、美鈴だった。
夕方のフリースペース。
光子と優子は、少し離れた場所で積み木をしている。
優馬は、美鈴の隣に座っていた。
美鈴は、できるだけやわらかい声で言った。
「美香ちゃん」
「はい」
「うちらのところで、一緒に暮らしてみる?」
美香は、意味がわからないように顔を上げた。
「……一緒に?」
優馬が続ける。
「うちは騒がしいよ。光子と優子がおるけんね」
光子が即座に振り返る。
「騒がしくない!」
優子も言う。
「ちょっとにぎやかなだけ!」
優馬は笑った。
「ほら、こういう感じ」
美鈴も少し笑い、そして真剣な顔に戻った。
「学校も、今の博多南中のままで大丈夫。みらいのたねからも近いし、うちらも支えられる」
美香は黙って聞いていた。
「今は白金荘やけど、もうすぐ一軒家に引っ越す予定なんよ。狭いかもしれんけど、美香ちゃんの場所もちゃんと作る」
場所。
自分の場所。
その言葉が、美香の胸にゆっくり落ちていった。
美鈴は言った。
「無理に決めんでいい。でも、うちらは美香ちゃんと一緒に暮らしたいと思っとる」
優馬も頷いた。
「家族になるって、急に信じろって言われても難しいと思う。でも、少しずつでいい。美香ちゃんが安心できるように、うちらも勉強しながらやっていく」
美香は、震える声で聞いた。
「うちが……一緒に住んでもいいの?」
その声は、あまりにも小さかった。
でも、光子と優子には届いた。
二人は積み木を放り出すようにして、美香の前へ来た。
「いい!」
「私たち、おねーちゃんと一緒がいい!」
即答だった。
迷いがなかった。
美香の目に涙が浮かぶ。
「でも、うち……迷惑かけるかも」
光子が首を振る。
「迷惑じゃなか!」
優子も言う。
「おねーちゃんがおったら、うれしか!」
美鈴が美香の手をそっと包んだ。
「迷惑やなくて、生活たい。家族って、助けたり助けられたりしながら暮らすもんやけん」
美香は、涙をこらえながら頷いた。
「……一緒に、暮らしたいです」
光子と優子が歓声を上げた。
「やったー!」
「美香おねーちゃん、家族!」
優馬が少し目を潤ませながら笑った。
「よし。じゃあ、これから小倉家、さらに騒がしくなるな」
美鈴が突っ込む。
「もう十分騒がしいけどね」
その時、美香は光子と優子をじっと見た。
そっくりだった。
本当にそっくりだった。
毎日会っているのに、まだ時々わからなくなる。
「あの……」
「なに?」
「二人って、どうやって見分けたらいいの?」
光子と優子は、顔を見合わせた。
そして、なぜか得意げに並んだ。
光子が右頬を指差す。
「私は右にほくろ!」
優子が左頬を指差す。
「私は左にほくろ!」
光子は自分の髪を触った。
「あと、私はポニテ!」
優子はツインテールを揺らした。
「私はツインテ!」
光子が右手を上げる。
「右利きが光子!」
優子が左手を上げる。
「左利きが優子!」
美香は、真剣に頷いた。
「右にほくろ、ポニテ、右利きが光子」
「そう!」
「左にほくろ、ツインテ、左利きが優子」
「そう!」
美香は二人を見比べた。
「……たぶん、覚えた」
光子が胸を張る。
「間違えてもよか!」
優子も笑う。
「間違えたら、もう一回教える!」
美香は、小さく笑った。
「ありがとう」
二人は、また美香に抱きついた。
今度の美香は、少しだけ自然に抱き返せた。
黒木家では、家族という言葉は怖かった。
親という言葉も、家という言葉も、帰るという言葉も怖かった。
でも、小倉家は違うかもしれない。
まだ信じきれない。
でも、信じてみたい。
白金荘から始まる、新しい生活。
そして、もうすぐ引っ越す一軒家。
美香の人生に、初めて「帰っていい場所」が生まれようとしていた。
⸻
次回予告
美香は小倉家で暮らすことを決める。
優馬、美鈴、光子、優子。
騒がしくて、あたたかい家族。
右ほくろ・ポニテ・右利きが光子。
左ほくろ・ツインテ・左利きが優子。
美香は少しずつ、双子の見分け方も覚えていく。
そして、白金荘での新しい暮らしが始まる。
次回、第五十七話
「白金荘の夜」




