トロンボーン
第五十三話
「トロンボーン」
博多南中学校吹奏楽部の音楽室は、放課後になると熱気でいっぱいになる。
譜面をめくる音。
チューニングの音。
笑い声。
先輩たちの掛け声。
その中で、美香は毎日、トロンボーンを抱えていた。
最初は、まともに音が出なかった。
「まずは息をまっすぐ入れてみようか」
先輩が優しく教えてくれる。
美香は頷き、マウスピースに口を当てた。
息を吹き込む。
――ボフッ。
空気が漏れるような音。
美香は慌てて頭を下げた。
「すみません……!」
すると先輩たちは笑った。
「いやいや、最初はみんなそうだよ!」
「うちなんか最初、鳩みたいな音だったし!」
「私はドアのきしみ音だった!」
音楽室に笑いが広がる。
怒られない。
失敗しても、怒鳴られない。
それが、美香にはまだ不思議だった。
次の日も。
その次の日も。
美香は必死だった。
自分も、いつか。
あの日、みらいのたねで聴いたみたいに。
誰かの心に届く音を出したい。
その思いだけで、何度も息を吹き込む。
唇が震える。
息が続かない。
腕も痛い。
それでも、美香はやめなかった。
そして、入部二日目。
美香は、もう一度息を入れた。
不安定だった。
揺れていた。
でも確かに――
「ドォ……」
音が鳴った。
低くて、小さな音。
けれど、確かに“ド”だった。
美香は、自分で驚いて顔を上げた。
先輩たちが一斉に振り返る。
「えっ、今出た!?」
「美香ちゃんすごいやん!」
「二日目で音出たじゃん!」
美香は、目を丸くした。
「……これ、音ですか?」
先輩が笑顔で頷く。
「音だよ! トロンボーンの音!」
その瞬間、美香の胸が熱くなった。
音が出た。
自分の息で。
誰かを傷つけるためじゃない。
怒鳴るためでもない。
音楽の音が。
美香は、何度も何度もその“ド”を吹いた。
まだ不安定だった。
でも、その音は美香にとって、世界で一番大切な音になった。
一方、勉強も必死だった。
城南中時代、まともに授業へ集中できなかった時間を取り戻すため、美香は夜遅くまで机に向かった。
ノートを開く。
教科書を読む。
わからないところを何度も書き直す。
眠くなる。
でも、止まらない。
止まったら、また置いていかれる気がした。
みらいのたねのスタッフが、何度も声をかける。
「美香ちゃん、少し休もう?」
「寝ないと身体壊すよ」
でも、美香は首を振った。
「追いつきたいんです」
その姿を、美鈴は静かに見守っていた。
「頑張りすぎる癖がついとるね……」
優馬も頷く。
「でも今の美香ちゃん、“やらされてる”顔やない。“自分で前に進もうとしてる”顔や」
少しずつ、結果も出始めた。
授業で手を止める時間が減る。
ノートが整っていく。
小テストの点数も上がる。
吹奏楽部では、ロングトーンが安定してくる。
「美香ちゃん、音きれいになったね」
「息の入り方、かなり良くなっとる」
そう言われるたび、美香は少し照れたように笑った。
そして夏休み前。
吹奏楽部のミーティングで、顧問の先生が話し始めた。
「今年のコンクールメンバーについてだけど――」
部員たちの空気が少し変わる。
美香も緊張した。
「黒木美香」
「は、はい!」
名前を呼ばれ、美香は立ち上がる。
顧問は真っ直ぐ言った。
「まだ入部して日は浅い。でも、努力量と成長速度を見て、コンクールメンバー候補に入れたいと思ってる」
音楽室がざわつく。
美香は目を見開いた。
「……私が?」
「もちろん、ここからさらに練習は必要だ。でも、出たいか?」
美香の胸が強く鳴る。
コンクール。
舞台。
大勢の前で演奏する。
怖い。
でも、それ以上に。
出たい。
自分も、あの日みたいに。
誰かの心に届く音を出したい。
美香は、しっかり顔を上げた。
「出たいです」
その声は、小さいけれどはっきりしていた。
顧問は頷く。
「よし。じゃあここから、本気で頑張ろう」
先輩たちも笑顔になった。
「やったじゃん美香ちゃん!」
「一緒に頑張ろう!」
美香は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
那珂川の欄干で、消えたいと思っていた少女。
その少女が今、“舞台に立ちたい”と思っている。
音楽は、美香の心を少しずつ変え始めていた。
⸻
次回予告
トロンボーンで初めて出した“ド”の音。
それは、美香が初めて自分の意思で掴んだ音だった。
勉強も、吹奏楽も、必死に前へ進む美香。
そして、夏の吹奏楽コンクール。
美香は初めて、大勢の前で演奏する舞台へ挑む。
次回、第五十四話
「吹奏楽コンクール」




