↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帰る場所~光の指す方へ  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
50/85

音楽は人を殴らない

 第五十二話

「音楽は人を殴らない」


 演奏会が終わったあとも、美香はしばらく動けなかった。


 拍手の音が遠くなっても、楽器の余韻がまだ胸の中に残っていた。


 ルパン三世のジャズ。

 威風堂々。

 第九。

 銀河鉄道999。


 どの音も大きかった。


 けれど、怖くなかった。


 黒木家で聞いてきた大きな音とは違った。


 怒鳴り声。

 缶ビールの音。

 乱暴に置かれる食器。

 夜の足音。


 それらは、美香の身体を縮こまらせる音だった。


 でも、山口第一中学校吹奏楽部の音は違った。


 大きいのに、押しつぶさない。

 力強いのに、傷つけない。

 まっすぐなのに、責めない。


 美香は、温也のトロンボーンを見つめていた。


「……その楽器」


 温也が気づいて、にっと笑った。


「トロンボーンやで」


「トロンボーン……」


 美香は、そっとその名前を繰り返した。


 金色の管。

 長く伸びるスライド。

 低くて、温かくて、少し人の声に似た音。


 さっきまで、部屋を包んでいた音。


 美香の中の凍った場所に、静かに触れてきた音。


「触ってみる?」


 温也が聞いた。


 美香は一度、首を横に振りかけた。


 壊したらどうしよう。

 怒られたらどうしよう。

 触っていいものなのだろうか。


 でも、温也は急かさなかった。


「俺が持っとくし、ここをそっと触るだけでええよ」


 郷子も隣で笑った。


「温也、楽器だけは丁寧に扱うけぇ大丈夫よ」


「楽器だけってなんやねん」


「普段は雑やん」


「郷子、俺の扱いも雑やな」


 そのやり取りに、光子と優子が笑った。


 美香も、ほんの少し口元を緩めた。


 そして、ゆっくり手を伸ばした。


 指先がトロンボーンに触れる。


 ひんやりしていた。


 けれど、怖くなかった。


 その金色の管から、さっきまで優しい音が出ていた。


 美香は思った。


 私も、こんな音を出してみたい。


 その思いは、まだ小さかった。


 声に出せるほど強くはなかった。


 でも確かに、美香の中に生まれた。


 演奏会のあと、みらいのたねでは歌う時間が増えた。


 光子と優子が、何かにつけて歌い出す。


「美香おねーちゃん、一緒に歌お!」


「今日はトトロでしゅ!」


 美香は、最初は小さな声だった。


 でも少しずつ、歌えるようになっていった。


 みらいのたねの子どもたちも一緒に歌う。


 童謡。

 ジブリの曲。

 昔からある唱歌。


 歌っている間だけは、美香の表情が少しやわらかくなる。


 優馬はそれを見て、美鈴に言った。


「美香ちゃん、音に反応しとるな」


 美鈴は頷いた。


「うん。無理に話させるより、歌の方が届く時がある」


 音楽は、人を殴らない。


 温也が言ったその言葉は、美香の中に残り続けた。


 それからしばらくして、美香の転入先が決まった。


 博多南中学校。


 みらいのたねから通える距離にある、架空の中学校だった。


 転入の手続きが進む間、美香はずっと不安だった。


 また聞かれるかもしれない。


 なんで転校してきたの。

 親はどうしたの。

 児童保護施設にいるの。

 何かあったの。


 その質問を想像するだけで、息が苦しくなった。


 転入初日。


 美香は新しい教室の前で立ち止まった。


 担任の先生がやさしく言った。


「大丈夫。無理に話さなくていいからね」


 美香は小さく頷いた。


 教室に入る。


 視線が集まる。


 心臓が強く鳴る。


「今日から一緒に勉強する、黒木美香さんです」


 美香は、深く頭を下げた。


「……黒木美香です。よろしくお願いします」


 声は小さかった。


 でも、教室の空気は思ったより静かだった。


 誰も深く聞き出そうとしなかった。


 休み時間、隣の席の子が言った。


「教科書、ここまで進んでるよ」


「ありがとう」


「部活、入る?」


 美香は少し迷った。


 でも、思い切って答えた。


「吹奏楽部……見てみたい」


「いいやん。うちの吹奏楽部、けっこう楽しいよ」


 その普通の返事に、美香は驚いた。


 特別扱いでもない。

 かわいそう扱いでもない。

 根掘り葉掘り聞かれるわけでもない。


 ただ、同じクラスの子として話しかけられている。


 それだけで、美香の胸が少し軽くなった。


 放課後。


 美香は吹奏楽部の練習を見に行った。


 音楽室の前に立つと、胸が高鳴った。


 中から聞こえる楽器の音。


 チューニング。

 笑い声。

 譜面台を動かす音。


 怖くない音だった。


 顧問の先生が声をかけた。


「見学?」


「はい」


「やってみたい楽器ある?」


 美香は、少しだけ息を吸った。


 そして、小さな声で言った。


「トロンボーン……」


 顧問の先生は微笑んだ。


「いいね。じゃあ、まず触ってみようか」


 美香は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 あの日、みらいのたねで触れた金色の楽器。


 山口第一中学校の演奏で、自分の心に届いた音。


 それが今、自分の目の前にある。


 美香は、そっとトロンボーンを受け取った。


 少し重い。


 でも、その重さは嫌ではなかった。


 自分の手で、何かを始める重さだった。


 その日、美香は博多南中学校吹奏楽部に入部することを決めた。


 まだ音は出ない。


 まだ息も続かない。


 楽譜も読めないところが多い。


 それでも、美香は初めて、自分から「やってみたい」と思った。


 誰かに命令されたからではない。


 役に立てと言われたからでもない。


 お金を稼げと言われたからでもない。


 自分の心が、初めて前を向いた。


 音楽は、人を殴らない。


 音楽は、人を否定しない。


 そして音楽は、消えたいと思っていた少女に、ほんの少しだけ未来を見せた。


 次回予告


 美香は博多南中学校へ転入し、普通にクラスへ迎え入れられる。


 そして、吹奏楽部へ入部。


 選んだ楽器は、トロンボーン。


 まだ音は出ない。

 息も続かない。

 楽譜も読めない。


 けれど、美香は初めて「自分でやってみたい」と思った。


 次回、第五十三話

「トロンボーン」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。