怒鳴られない朝
第四十五話
「怒鳴られない朝」
みらいのたねで迎えた朝は、静かだった。
美香は、最初その静けさが怖かった。
黒木家の朝は、いつも何かに怯える時間だった。
和正の機嫌。
香織のため息。
冷蔵庫を開ける音。
食卓に自分の分があるかどうか。
でも、ここでは違った。
「美香ちゃん、おはよう」
スタッフが声をかける。
怒鳴られない。
急かされない。
責められない。
食卓には、美香の分の朝ごはんがあった。
白いご飯。
味噌汁。
卵焼き。
小さな果物。
美香はまた、聞いてしまった。
「……食べていいんですか」
スタッフは、昨日と同じように答えた。
「もちろん。美香ちゃんの分やけんね」
美香は、ゆっくり食べた。
箸を動かすたびに、まだ少し緊張する。
誰かに取り上げられるのではないか。
「食べるな」と言われるのではないか。
でも、何も起きなかった。
朝食を終えても、怒られなかった。
それだけのことが、美香には不思議だった。
昼間、みらいのたねではスタッフたちが児童相談所や学校と連絡を取り合っていた。
美香をどう支えるか。
通学はどうするか。
医療や心理的なケアをどうつなぐか。
黒木家からの接触をどう防ぐか。
大人たちの会話は難しかったが、美香はひとつだけわかった。
自分を家に戻すための話ではない。
自分を守るための話をしている。
そのことが、まだ信じられないほど不思議だった。
午後。
幼稚園が終わる時間になると、美鈴がやって来た。
そして、その後ろから、小さな爆弾みたいな二人が現れた。
「美香おねーちゃーん!」
「来たでしゅー!」
光子と優子だった。
二人は幼稚園の制服姿で、リュックを背負ったまま、一直線に美香のところへ走ってきた。
美鈴が慌てる。
「こら、走らんの!」
光子はぴたりと止まった。
「安全運転!」
優子も止まる。
「急ブレーキでしゅ!」
美香は、また固まった。
安全運転。
急ブレーキ。
なぜ幼稚園児がそんなことを言うのか、わからなかった。
光子は、美香の前に立つと胸を張った。
「今日はね、テレビでもやったネタをします!」
優子も胸を張る。
「お父さんネタでしゅ!」
優馬が、少し離れた場所で嫌な予感の顔をした。
「おい、まさかそれやるんか」
光子は大きく頷いた。
「やる!」
優子も頷いた。
「伝説のやつ!」
美鈴は頭を抱えた。
「伝説にせんでいいとよ……」
光子は、なぜかテレビの前に座る父親の真似を始めた。
小さな身体で、精いっぱい険しい顔を作る。
「九回裏! ホークス、一対ゼロでリード!」
優子が横で実況する。
「マリーンズの攻撃! ランナー一人! ツーアウト!」
光子が架空のテレビに向かって拳を握る。
「あと一人! あと一人!」
優子が急に声を低くする。
「投げた!」
光子が目を見開く。
「打った!」
優子が両手を上げる。
「ライトへ大きい! 大きい!」
光子が頭を抱えた。
「入ったぁぁぁ!」
優子が叫ぶ。
「逆転サヨナラツーランホームラン!」
次の瞬間、光子は床に崩れ落ちた。
「うにゃ〜! あじゃぱー!」
優子も隣で、なぜか一緒に崩れる。
「あじゃぱーでしゅー!」
部屋が静まり返った。
美香の頭の中に、また大量の「???」が飛び回った。
うにゃ〜?
あじゃぱー?
ホークス?
マリーンズ?
逆転サヨナラツーラン?
父親ネタ?
何が起きたのか、まったくわからない。
美香はぽかんとしたまま、光子と優子を見つめた。
優馬は額を押さえていた。
「それ、俺の黒歴史やん……」
美鈴は笑いをこらえきれず、肩を震わせている。
「いや、優馬、あの時ほんとに言いよったけんね。『うにゃ〜あじゃぱー』って」
「言ってない」
「言った」
「いや、ちょっと変な声が出ただけ」
「それが『うにゃ〜あじゃぱー』やったと」
光子が床から顔を上げる。
「お父さん、テレビに負けた!」
優子も続ける。
「ホークスも負けた!」
優馬が真顔で言った。
「そこは蒸し返さんでよか」
そのやり取りを見ていた美香の口元が、少しだけ動いた。
ふっ。
今度は、昨日より少しだけはっきりした。
美鈴が気づく。
優馬も気づく。
けれど、誰も「笑った」とは言わなかった。
言えば、美香が身構えるかもしれないから。
光子だけは容赦なかった。
「美香おねーちゃん、笑った!」
優子も嬉しそうに跳ねる。
「笑ったでしゅ!」
美香は慌てて口を押さえた。
「ごめんなさい」
反射的に謝った。
光子が首を傾げる。
「なんで?」
優子も不思議そうにする。
「笑ったら、だめ?」
美香は答えられなかった。
笑ったら怒られる。
そういう日々が長すぎた。
美鈴が静かに言った。
「ここでは、笑ってもいいとよ」
優馬も続ける。
「むしろ、あのネタで笑わんかったら、俺が一番傷つく」
美鈴がすかさず突っ込む。
「そこは傷つかんでいい」
光子が胸を張る。
「お父さん、傷ついたら、ばんそうこう!」
優子が続ける。
「あじゃぱー用ばんそうこう!」
優馬は天井を見た。
「もうやめて……」
美香は、今度は少しだけ声を出して笑った。
本当に小さな笑いだった。
でも、確かに笑った。
笑ったあと、すぐに不安になった。
怒られないか。
うるさいと言われないか。
調子に乗るなと言われないか。
けれど、誰も怒らなかった。
光子と優子は、ただ嬉しそうにしていた。
「美香おねーちゃん、もっと笑っていいよ!」
「ゆうこも笑う!」
二人はまた、意味不明なポーズを取った。
「うにゃ〜!」
「あじゃぱー!」
美香は、泣きそうになりながら笑った。
みらいのたねの午後。
そこには怒鳴り声ではなく、意味不明なギャグがあった。
美香はまだ、完全に安心できない。
夜になれば怖くなる。
食べる時は身構える。
足音にも反応する。
自分が生きていていいのか、まだわからない。
でも、この日。
光子と優子の「うにゃ〜あじゃぱー」は、美香の固い心に小さな穴を開けた。
そこから、ほんの少しだけ空気が入った。
笑いという、黒木家にはなかった空気が。
次回予告
光子と優子の謎すぎるギャグに、美香は少しだけ笑った。
うにゃ〜。
あじゃぱー。
逆転サヨナラツーランホームラン。
意味はわからない。
でも、怒鳴り声ではない音が、美香の心に届き始める。
次回、第四十六話
「双子の大騒ぎ」




