↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帰る場所~光の指す方へ  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
42/90

食べていいの?

第四十四話


「食べていいの?」


 美香は、箸を持つ手を何度も止めた。


 白いご飯。

 味噌汁。

 小さな焼き魚。

 卵焼き。

 温かいお茶。


 みらいのたねの食卓に並べられたそれは、特別豪華な食事ではなかった。


 けれど、美香にとっては、信じられないほど大きなものだった。


「……食べていいんですか」


 美香は、また聞いた。


 スタッフは、何度目でも同じように答えた。


「うん。美香ちゃんの分やけん、食べていいよ」


 美香は、小さく頷いた。


 箸でご飯を少しだけ取る。

 口に入れる。

 噛む。

 飲み込む。


 ゆっくり。

 ゆっくり。


 食べ物が、お腹の中へ落ちていく。


 怒鳴られない。


 取り上げられない。


 「金食い虫」と言われない。


 その事実に、胸が苦しくなる。


 児童相談所との連絡は、その間も続いていた。


 みらいのたねのスタッフは、学校や保護先から共有された記録を受け取った。


 食事を与えられなかったこと。

 必要な衛生用品を用意されなかったこと。

 服や靴が成長に合わなかったこと。

 暴言と身体的暴力。

 スマホに届いた人格否定の言葉。

 那珂川の欄干に立っていたこと。


 ひとつひとつの記録を確認するたび、部屋の空気は重くなった。


 美鈴は、その話を聞いて、強く唇を結んだ。


 怒りがあった。


 でも、その怒りを美香に向けてはいけない。


 美香に必要なのは、怒鳴り声ではなく、安心できる声だった。


 食後、美鈴は美香の少し離れた席に座った。


「美香ちゃん」


 美香はびくっとして顔を上げた。


 美鈴は、ゆっくり笑った。


「私は小倉美鈴。博多南幼稚園で先生をしてると」


「……先生?」


「うん。光子と優子も、今、幼稚園に通ってる。まあ、あの二人はちょっと騒がしいと思うけどね」


 美鈴は苦笑した。


「でも、ここは安心していいところ。食べてもいい。泣いてもいい。黙っててもいい。無理に笑わんでいい」


 美香は返事をしなかった。


 でも、その言葉を聞いていた。


 その時、廊下の向こうから小さな足音が近づいてきた。


 ぱたぱた。


 ぱたぱた。


「ママ、あいさつする!」


「優子もする!」


 現れたのは、三歳の光子と優子だった。


 美鈴が少し慌てる。


「二人とも、ゆっくりね。美香ちゃん、びっくりするけん」


 光子は胸に手を当て、なぜか勇ましい顔をした。


「光の戦士みちゅこでーす!」


 優子も真似して、ぺこりと頭を下げた。


「優しさ子ゆうこでーしゅ!」


 部屋が一瞬、止まった。


 美香の頭の上に、見えない「???」が飛び回った。


 光の戦士。


 優しさ子。


 みちゅこ。

 ゆうこでーしゅ。


 意味がわからなかった。


 怖くもない。

 怒鳴り声でもない。

 責める言葉でもない。


 ただ、全力でおかしな挨拶だった。


 美香の固まっていた顔が、ほんの少しだけ緩んだ。


 ふっ。


 声にもならない、小さな息。


 でも、それは笑いに近かった。


 美鈴は、それを見逃さなかった。


 光子が、美香の顔を覗き込む。


「おねーちゃんのお名前は?」


 美香は、自分を指差した。


「……私?」


「うん!」


 優子も頷く。


「お名前、なあに?」


 美香は、少しだけ迷ってから答えた。


「私は……美香です。よろしくね」


 光子と優子の顔が、ぱっと明るくなった。


「美香おねーちゃん!」


「美香おねーちゃん、ぎゅー!」


 次の瞬間、二人は美香に抱きついた。


 小さな腕。


 柔らかい頬。


 ミルクと石けんみたいな匂い。


 美香は、どうしていいかわからず固まった。


 でも、光子と優子は怖くなかった。


 力いっぱいなのに、痛くなかった。


 奪うためではなく、責めるためでもなく、ただ「好き」と言うみたいに抱きついていた。


 美香の目に、涙が浮かんだ。


 優馬が、少し離れた場所で言った。


「こらこら、二人とも。美香おねーちゃん、びっくりしとうやろ」


 光子が顔を上げる。


「びっくりした?」


 美香は、涙をこらえながら小さく頷いた。


「……ちょっと」


 優子が真剣な顔で言う。


「じゃあ、ゆっくりぎゅーする」


 光子も頷いた。


「そーっとぎゅー」


 二人は、今度は本当にそっと美香に寄り添った。


 美香の中で、何かが少しだけ崩れた。


 壊れる崩れ方ではなかった。


 固まっていた氷が、少しだけ溶けるような崩れ方だった。


 この子たちは、私を怖がっていない。


 汚いとも言わない。


 臭いとも言わない。


 普通じゃないとも言わない。


 ただ、美香おねーちゃんと呼んだ。


 美香は、震える手で、ほんの少しだけ光子の背中に触れた。


 優子が嬉しそうに笑う。


「美香おねーちゃん、あったかい」


 その言葉で、美香は泣いた。


 声を殺そうとした。


 でも、美鈴が言った。


「泣いていいよ」


 優馬も、静かに言った。


「ここでは、泣いても誰も怒らん」


 美香は、光子と優子に抱きつかれたまま、涙を流した。


 それは、那珂川の欄干で流した涙とは少し違っていた。


 絶望だけではなかった。


 まだ名前のつかない、ほんの小さな安心が混じっていた。


 みらいのたね。


 そこは、美香が初めて「食べていい」と言われた場所。


 初めて「泣いていい」と言われた場所。


 そして、初めて「美香おねーちゃん」と呼ばれた場所になった。



次回予告


 みらいのたねで、美香は初めて安心できる食事を知る。


 そして小倉優馬、美鈴、三歳の光子と優子と出会う。


 光の戦士みちゅこ。

 優しさ子ゆうこ。


 意味不明な挨拶が、美香の固まった心を少しだけ緩めた。


 だが、黒木家は美香を手放そうとはしない。


 次回、第四十五話

 「怒鳴られない朝」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。