みらいのたね
第四十三話
「みらいのたね」
美香は、毛布に包まれていた。
那珂川の欄干から離されたあと、みらいのたねのスタッフは、美香を責めなかった。
名前も、事情も、無理には聞かなかった。
ただ、温かい飲み物を渡してくれた。
「飲めそうなら、少しだけでいいよ」
美香は両手でカップを持った。
手が震えていた。
湯気が顔に触れる。
それだけで、涙が出そうになった。
スタッフはすぐに児童相談所へ連絡した。
そして、学校にも連絡が入った。
「城南中学校の黒木美香さんを保護しています」
その一報を受けた担任は、言葉を失った。
予感はあった。
危ないと思っていた。
それでも、那珂川の欄干という場所を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
あと少し遅かったら。
その考えが、頭から離れなかった。
みらいのたねでは、美香を受け入れる方向で話が進められていった。
正式な手続き。
児童相談所との確認。
保護先との連携。
学校との情報共有。
大人たちが動く中、美香は小さなソファの端に座っていた。
目は赤く腫れている。
身体は細く、肩はいつもすくんでいる。
誰かが近づくたび、びくっと震える。
そこへ、小倉優馬と美鈴がやって来た。
二人は、みらいのたねの支援者として関わっていた。
そしてこの頃、三歳にしてすでに爆笑ギャグコントを振りまき、テレビでも人気者になり始めていた双子、光子と優子の両親でもあった。
「こんばんは」
美鈴は、声を低く、やわらかくした。
美香は顔を上げたが、すぐに伏せた。
優馬は、無理に笑わせようとはしなかった。
その細い肩。
警戒した目。
毛布を握りしめる手。
二人は、その姿を見ただけでわかった。
この子を、絶対に一人にしてはいけない。
美鈴は職員に小さく確認した。
「食事は?」
「まだ少ししか」
「眠れそう?」
「かなり難しいと思います」
優馬は、ぐっと拳を握った。
怒りはあった。
だが、その怒りを美香に見せてはいけない。
怖がらせてはいけない。
美鈴は、美香の少し離れた場所に座った。
「美香ちゃん、ここでは無理に話さんでいいけんね」
美香の目が揺れた。
「……怒られませんか」
「怒らんよ」
「泣いても?」
「泣いても怒らん」
「食べても?」
その問いに、美鈴の胸が締めつけられた。
優馬も、息を呑んだ。
美鈴は、ゆっくり答えた。
「食べても怒らん。ここでは、食べていいとよ」
美香は、唇を震わせた。
その時、廊下の向こうから小さな声が聞こえた。
「ママ、あの子だれ?」
「こら光子、声大きい」
「優子、声小さくしたもん」
「いや、今の声もそこそこ大きいばい」
三歳の光子と優子だった。
美鈴が慌てて振り返る。
「二人とも、今日は静かにね」
光子は真剣な顔で頷いた。
「しずかにする!」
優子も頷く。
「やさしくする!」
その言葉に、優馬が小さく苦笑した。
美香は、ほんの少しだけ顔を上げた。
小さな双子が、こちらを見ていた。
光子が、美香に向かって小さく手を振る。
「こんばんは」
優子も、隣でぺこりと頭を下げた。
「こんばんは」
美香は、どう返していいかわからなかった。
でも、二人の声には怖さがなかった。
怒鳴り声ではなかった。
命令でもなかった。
ただの、子どもの挨拶だった。
美香は、かすかに唇を動かした。
「……こんばんは」
それだけで、美鈴は泣きそうになった。
美香の世界は、まだ閉じている。
けれど、完全には終わっていない。
その夜、みらいのたねでは、美香のために温かい食事が用意された。
美香は何度も確認した。
「食べていいんですか」
そのたびに、職員も、美鈴も、優馬も答えた。
「食べていい」
「美香ちゃんの分やけん」
「遠慮せんでいい」
美香は少しずつ食べた。
急がなくていいと言われても、最初は急いでしまった。
けれど、誰も怒らない。
誰も取り上げない。
食べ終わったあと、美香は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
美鈴は言った。
「また明日も食べようね」
明日。
その言葉を聞いた時、美香は少しだけ目を伏せた。
明日が来ることが、まだ怖い。
でも、ここで迎える明日なら。
ほんの少しだけ、違うかもしれない。
優馬は、美鈴にだけ聞こえる声で言った。
「美鈴。この子、ほっといたらいかん」
美鈴は頷いた。
「うん。絶対に一人にしたらいかん」
その決意は、まだ美香には届いていなかった。
けれど、この夜を境に、美香の人生は少しずつ進む方向を変えていく。
みらいのたね。
そこは、消えようとした少女が、もう一度名前を呼ばれる場所になっていく。
次回予告
みらいのたねで保護された美香。
児童相談所、学校、支援者たちが動き出す。
そして美香は、小倉優馬と美鈴、三歳の光子と優子に出会う。
笑うことも、食べることも、まだ怖い。
けれど、みらいのたねには怒鳴り声がなかった。
次回、第四十四話
「食べていいの?」




