那珂川の欄干
第四十二話
「那珂川の欄干」
中学校に入ってからも、美香は「普通」になれなかった。
保護先で暮らしていても、学校へ行けば、自分だけが周囲と違うことを思い知らされる。
親が迎えに来る子。
休日に家族で出かけた話をする子。
部活の道具を買ってもらった子。
母親とコンビニで新しい文房具を選んだという子。
その輪の中に、美香は入れなかった。
城南中学校の教室。
昼休み。
女子たちが雑誌を囲みながら話していた。
「うちのママさ、今度ブラ買いに行こうって」
「いいなー」
「うちも新しいの買ってもらった」
その時、一人の女子が美香を見た。
「黒木さんって、そういうの買ってもらってる?」
教室の空気が少し止まる。
美香は、とっさに答えられなかった。
「……」
別の子が、小さく笑った。
「なんか、保護されてるんでしょ?」
「児相だっけ?」
「親来ないもんね」
「かわいそー」
かわいそう。
その言葉は、刃物みたいだった。
美香は俯いた。
すると、誰かが言った。
「でもさ、家に帰れないって、よっぽどじゃない?」
「なんか問題あるんじゃない?」
「普通じゃないよね」
普通じゃない。
その言葉が、美香の胸を深く抉った。
美香は立ち上がった。
「黒木さん?」
担任が入ってくる直前だった。
美香は、何も言わず教室を出た。
廊下を歩く。
呼吸が浅い。
頭の中で、いろんな声が混ざる。
お前なんか。
役立たず。
普通じゃない。
かわいそう。
いらん子。
全部、本当なのかもしれない。
美香は、そのまま学校を出た。
誰にも声をかけられなかった。
駅まで歩く。
ICカードを通す。
電車が来る。
乗る。
窓の外を街が流れていく。
どこへ行くのか、自分でもわからなかった。
ただ、消えたかった。
博多駅で降りる。
人が多い。
笑い声。
観光客。
買い物袋。
カップル。
家族連れ。
その中を、美香は幽霊みたいに歩いた。
自分だけ、世界から切り離されている気がした。
夕方になっていた。
空は少し赤い。
美香は、那珂川の方へ歩いていた。
何度も通ったことのある街。
でも今日は、景色が違って見えた。
橋の上に立つ。
川を見下ろす。
水が流れている。
街の灯りが揺れている。
冷たい風が吹く。
美香は欄干に手をかけた。
ここから飛び込めば。
終われる。
怒鳴り声も。
悪夢も。
学校も。
全部。
怖かった。
でも、生きている方がもっと怖かった。
美香は欄干を強く握った。
涙が止まらない。
「もう……いや……」
その時だった。
「お嬢ちゃん!」
後ろから声がした。
美香が振り向く。
三十代くらいの女性が、息を切らして立っていた。
その後ろには男性スタッフもいる。
女性はゆっくり近づきながら言った。
「寒いやろ。こっちおいで」
美香は何も答えなかった。
女性は無理に掴まなかった。
ただ、距離を保ちながら話しかけた。
「今日、ご飯食べた?」
美香の喉が詰まる。
どうしてそんなことを聞くのだろう。
「……」
「一人でずっと歩いてたやろ」
美香は欄干を握る手に力を入れた。
「放っといてください」
声が震える。
「私、いなくなった方がいいんです」
女性スタッフの表情が変わった。
でも、慌てなかった。
「そんなことない」
「あります……!」
美香は泣きながら叫んだ。
「お前なんかって言われた! 生まれなければよかったって! 普通じゃないって!」
声が崩れる。
「もう疲れた……」
女性スタッフは、ゆっくり言った。
「ここ、風強いけん。まず、欄干から降りよう」
美香は動けなかった。
男性スタッフが静かに言う。
「怒らんけん。誰も怒らん」
その言葉で、美香の身体が少し揺れた。
怒られない。
その一言が、美香を現実に引き戻した。
女性スタッフは続ける。
「うち、“みらいのたね”っていう場所なんよ」
「……」
「帰る場所がしんどい子とか、行く場所なくなった子とか、一緒にご飯食べたりする場所」
みらいのたね。
美香はその名前を知らなかった。
でも、その女性の声は怖くなかった。
「一回だけ来てみる?」
美香は泣きながら首を振った。
「私なんか……迷惑です」
女性スタッフは、はっきり言った。
「迷惑じゃない」
その言葉で、美香の足から力が抜けた。
欄干から手が離れる。
その瞬間、女性スタッフがそっと美香を抱き寄せた。
美香は声を上げて泣いた。
橋の上で。
博多の夜景の中で。
初めて、自分を止めるために抱きしめられた。
みらいのたね。
その場所で、美香は後に、小倉優馬と美鈴に出会う。
音楽と笑いに包まれた家族に出会う。
そして、閉じた心を少しずつ開いていく。
だが、その夜の美香は、まだ何も知らない。
ただ、那珂川の欄干から、ほんの一歩だけ引き戻された少女だった。
⸻
次回予告
那珂川の欄干で、美香は消えようとしていた。
だが、“みらいのたね”のスタッフが、その手を離さなかった。
温かい食事。
怒鳴られない夜。
そして、初めて出会う「笑う大人たち」。
次回、第四十三話
「みらいのたね」




