保護された夜
第四十一話
「保護された夜」
その夜、美香はなかなか眠れなかった。
布団の中は温かい。
部屋は清潔で、怒鳴り声もない。
廊下の向こうには職員がいる。
それでも、身体は眠ることを怖がっていた。
美香はそっと起き上がり、部屋のドアを開けた。
廊下は静かだった。
黒木家の夜とは違う。
缶ビールの音もない。
怒鳴り声もない。
乱暴に歩く足音もない。
フリースペースの方から、かすかに音楽が聞こえてきた。
美香は足を止めた。
ピアノ。
ベース。
ドラム。
そして、管楽器の明るい音。
静かな夜に、ジャズが流れていた。
弾むようなリズム。
でも、ただ明るいだけではない。
胸の奥に熱を持った、少し大人びた音。
美香は、入口の近くに立ったまま動けなくなった。
職員が気づき、声をかけた。
「眠れなかった?」
美香は小さく頷いた。
「……はい」
「ここ、座っていいよ。音、小さくしてるから」
美香はソファの端に座った。
音楽は、誰かを責めていなかった。
怒鳴らない。
命令しない。
脅さない。
ただ、そこに流れていた。
美香は膝の上で手を握りながら、じっと聴いた。
音が、心の硬いところに少しだけ触れる。
けれど美香は、まだ知らない。
この先、山口から来る温也と郷子、そして山口第一中学校吹奏楽部の生演奏に出会い、音楽が自分の閉じた心を開いていくことを。
トロンボーンの音に救われることを。
博多南中学校で吹奏楽を始めることを。
やがて、世界中のホールで拍手を浴びるミュージシャンになることを。
今の美香には、そんな未来など想像できなかった。
ただ、この夜だけは。
ジャズの明るく情熱的なリズムが、黒木家の怒鳴り声を少しだけ遠ざけてくれた。
美香は、ぽつりと言った。
「音って……怖くないんですね」
職員は、静かに微笑んだ。
「怖くない音も、たくさんあるよ」
美香は、その言葉を胸の中で繰り返した。
怖くない音。
その夜、美香は初めて、音を少しだけ信じた。
次回予告
保護された夜、フリースペースで流れていたジャズ。
美香はまだ知らない。
音楽が、やがて自分を救うことを。
そして、児童保護施設へ移る日が近づいていた。
次回、第四十二話
「食べていいの?」




