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帰る場所~光の指す方へ  作者: リンダ


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保護


第四十話


「保護」


 美香は、もう黒木家には戻らない。


 その言葉を聞いた時、美香は、すぐには理解できなかった。


 保護先の小さな面談室。

 白い壁。

 丸いテーブル。

 向かい側に座る児童相談所の担当者。

 隣には保護先の職員。

 少し離れた席には、城南中学校の担任もいた。


 誰も怒っていない。


 誰も机を叩かない。


 誰も「お前が悪い」と言わない。


 それなのに、美香の身体は固まっていた。


 児童相談所の担当者が、ゆっくりと言った。


「美香さん。これからしばらく、黒木さんの家には戻りません」


 美香は、膝の上で握っていた手に力を込めた。


「……戻らない?」


「はい。美香さんの安全を守るためです」


 安全。


 その言葉は、美香にとって、まだ遠い言葉だった。


 安全第一。


 昔、父がトラックの助手席で教えてくれた言葉。


 信号の話。

 黄色は急げじゃないという話。

 事故をしたら大事なものが壊れるという話。


 あの時の父は、確かに優しかった。


 けれど、その父が壊した。


 家を。

 生活を。

 母を。

 そして、美香の心を。


 担当者は続けた。


「お父さんとお母さんがいる家へ、今すぐ美香さんを戻すことはできません。学校、保護先、市役所、警察とも情報を共有しています」


 警察という言葉に、美香の肩が震えた。


「私……何か悪いことしましたか」


 反射のように出た言葉だった。


 担任の先生が、すぐに首を振った。


「黒木さんは悪いことをしていません」


 保護先の職員も、静かに言った。


「悪いことをされた側です」


 美香はうつむいた。


 その言葉を、心が受け取れない。


 悪いことをされた側。


 本当にそうなのだろうか。


 黒木家では、いつも逆だった。


 お金がかかる美香が悪い。

 給食費がいる美香が悪い。

 靴がきついと言う美香が悪い。

 生理用品が必要になった美香が悪い。

 助けてと言った美香が悪い。

 児童相談所に保護された美香が悪い。


 ずっと、そう言われてきた。


 だから、突然「あなたは悪くない」と言われても、心のどこに置けばいいのかわからなかった。


「お父さんとお母さんは……怒りますか」


 美香が小さく聞いた。


 児童相談所の担当者は、言葉を選んだ。


「怒るかもしれません。でも、それは美香さんの責任ではありません」


「でも……」


「怒らせないために、美香さんが我慢する必要はありません」


 その言葉で、美香の胸の奥がきゅっと痛んだ。


 怒らせないために我慢する。


 それが、美香の生き方だった。


 足音を聞く。

 缶ビールの音を聞く。

 声の低さを聞く。

 母のため息を聞く。


 そして、怒らせないように息を小さくする。


 欲しいと言わない。

 痛いと言わない。

 お腹が空いたと言わない。

 怖いと言わない。

 助けてと言わない。


 そうやって生きてきた。


 それを、しなくていいと言われている。


 でも、しなくていい生き方を、美香はまだ知らなかった。


 面談が終わると、職員が美香を食堂へ案内した。


 夕食の時間だった。


 テーブルには、すでに数人の子どもたちが座っていた。


 茶碗に盛られた白いご飯。

 湯気の立つ味噌汁。

 焼き魚。

 小さなサラダ。

 果物が少し。


 美香は、入り口で立ち止まった。


「美香さん、ここに座っていいよ」


 職員が椅子を引いた。


 美香は、おそるおそる座った。


 目の前に、自分の分の食事がある。


 誰かの残りではない。

 隠れて食べるものでもない。

 怒られないように急いで飲み込むものでもない。


 自分のために用意された食事だった。


 それが信じられなかった。


「……食べていいんですか」


 その言葉を聞いた職員の表情が、ほんの少しだけ歪んだ。


 悲しみを飲み込んだ顔だった。


「もちろん。美香さんのご飯だよ」


 美香は箸を持った。


 手が震える。


 一口、白いご飯を口に入れる。


 温かかった。


 それだけで、喉が詰まりそうになった。


 黒木家では、食べることは怖かった。


 食べれば金がかかると言われた。

 給食で食っているだろうと言われた。

 お前のための金はないと言われた。

 食べるなと言われた。


 だから、美香は食べる時、いつも身体を小さくしていた。


 でも今、誰も怒らない。


 誰も茶碗を取り上げない。


 誰も「金食い虫」と言わない。


 美香は味噌汁を飲んだ。


 温かさが胃に落ちる。


 身体が、食べ物を欲しがっているのがわかった。


 でも、美香はすぐに箸を止めた。


 食べすぎたら怒られるかもしれない。


 そう思ってしまう。


 職員は気づいていた。


 けれど急かさなかった。


「ゆっくりでいいよ」


 ゆっくり。


 美香は、その言葉に戸惑った。


 給食は急いで食べていた。


 家では食べられる時に食べなければならなかった。


 ゆっくり食べていい食事など、美香には久しぶりだった。


 食後、美香は職員に案内されて、自分の部屋へ向かった。


 小さな部屋だった。


 ベッド。

 机。

 棚。

 カーテン。

 清潔なシーツ。


 必要最低限のものしかない。


 それでも、美香にとっては十分すぎた。


「ここをしばらく使ってね」


 職員が言った。


「鍵は?」


 美香は反射的に聞いた。


「部屋の中から閉める鍵はないけど、勝手に入らないよ。入る時はノックする」


 美香はうなずいた。


 勝手に入らない。


 その言葉が、不思議だった。


 黒木家では、ドアは境界ではなかった。


 和正の足音が近づけば、部屋は部屋ではなくなる。

 ドアは開けられる。

 逃げ場はない。


 ここでは、ノックするという。


 それだけで、美香の胸が少しだけ緩んだ。


 夜。


 消灯時間が近づく。


 美香はベッドに入った。


 部屋の灯りは、完全には消さなかった。


 小さな常夜灯が、壁を淡く照らしていた。


 美香は布団の端を握りしめた。


 静かだった。


 静かすぎた。


 黒木家の夜には、いつも音があった。


 缶ビールの音。

 テレビの音。

 舌打ち。

 足音。

 怒鳴り声。

 ため息。

 物を置く強い音。


 ここには、それがない。


 ないはずなのに、美香の耳は勝手に探してしまう。


 廊下で誰かが歩く音がした。


 美香の身体が跳ねる。


 足音。


 近づいてくる。


 心臓が速くなる。


 来ないで。


 来ないで。


 来ないで。


 足音は、美香の部屋の前で止まった。


 美香は息を止めた。


 コンコン。


 ノックだった。


「美香さん、眠れそう?」


 職員の声。


 和正の声ではない。


 怒鳴る声ではない。


 美香は、喉を震わせながら答えた。


「……まだ怖いです」


 言えた。


 怖い、と言えた。


 職員はドアの外で言った。


「そっか。じゃあ、少しこの近くにいるね。ドアは開けないから、安心して」


 ドアは開かなかった。


 足音は遠ざからなかった。


 職員は、廊下の椅子に座っているようだった。


 人がいる気配。


 でも、それは脅しではなかった。


 見張りでもなかった。


 守るための気配だった。


 美香は布団の中で、ゆっくり息をした。


 それでも眠れなかった。


 目を閉じると、黒木家が戻ってくる。


 和正の声。


 食べるな。


 お前なんか。


 金食い虫。


 香織の沈黙。


 学校での笑い声。


 臭い。


 近く来ないで。


 足の痛み。


 空っぽの弁当箱。


 テレビニュースの音。


 もう私を誰か殺して。


 自分の口から出たその言葉が、今も怖かった。


 美香は、布団の中で小さく震えた。


 生きていていいのかわからない。


 でも、今日は帰らなくていい。


 その二つの間で、心が揺れていた。


 翌朝。


 美香は、明るくなる前に目を覚ました。


 ほとんど眠れなかった。


 けれど、朝が来た。


 怒鳴り声のない朝だった。


 布団を出ると、廊下に職員がいた。


「おはよう」


 美香は一瞬、返事に詰まった。


 朝に、おはようと言われる。


 それだけのことが、少し怖くて、少し温かかった。


「……おはようございます」


 食堂へ行くと、朝食が用意されていた。


 ご飯。

 味噌汁。

 卵。

 海苔。


 美香はまた聞きそうになった。


 食べていいんですか。


 でも、職員が先に言った。


「美香さんの分、ここにあるよ」


 美香は小さく頷いた。


 一口食べる。


 温かい。


 朝に食べても怒られない。


 その事実に、また涙が出そうになった。


 登校前、職員が言った。


「今日は学校へ行く前に、担任の先生と少し話そうね。無理に全部話さなくていいよ」


「……はい」


「困った時は、大丈夫じゃなくてもいい」


 美香は、箸を持つ手を止めた。


 大丈夫じゃなくてもいい。


 その言葉は、まだ慣れない。


 けれど、心のどこかに残った。


 学校では、担任と保健室の先生が待っていた。


「おはよう、黒木さん」


「おはようございます」


 美香の声は小さかった。


 でも、昨日より少しだけ空気を吸えているように見えた。


 保健室の先生は、無理に聞かず、体調だけを確認した。


「眠れた?」


 美香は少し迷ってから答えた。


「……あまり」


「そっか。眠れなかったんだね」


 責められない。


 それだけで、美香は少しだけ肩の力を抜いた。


 担任が言った。


「今日は、しんどくなったら保健室に来ていいからね」


「はい」


 その日、美香は授業を受けた。


 ノートに字を書いた。


 時々、手が止まった。


 窓の外を見た。


 教室の音が遠くなる瞬間があった。


 それでも、美香はそこにいた。


 給食の時間、美香はゆっくり食べた。


 以前のように急いで飲み込まなかった。


 まだ怖い。


 でも、少しだけゆっくり食べた。


 放課後、村瀬由紀が学校に来ていた。


 美香は保健室で会った。


「美香ちゃん」


 由紀は、いつも通り、急に抱きしめたりはしなかった。


 ただ、少し離れた椅子に座った。


「昨日、保護先で眠れた?」


「少しだけ……」


「そっか」


 由紀は穏やかに頷いた。


「帰らなくてよかったね」


 その言葉で、美香の目に涙が浮かんだ。


「はい……」


 声が震えた。


「でも、怖いです」


「うん。怖いよね」


「また連れ戻されるかもって」


「そう思うよね。でも、大人たちで守るから」


 美香はうつむいた。


「本当に……?」


「本当に」


 由紀は静かに言った。


「今度は、見逃さない」


 その言葉は、美香に向けられたものでもあり、由紀自身への誓いでもあった。


 黒木家の扉は、まだ美香の心の中にある。


 閉じ込められた夜の記憶も、足音も、怒鳴り声も、簡単には消えない。


 けれど、美香は現実の扉からは離れた。


 戻らなくていい場所へ、ようやくたどり着いた。


 保護とは、終わりではない。


 むしろ、ここからが始まりだった。


 食べる練習。

 眠る練習。

 怖いと言う練習。

 助けを求める練習。

 自分が悪くないと、少しずつ知っていく練習。


 美香はまだ、笑えない。


 まだ、自分の未来を信じられない。


 それでも、その夜。


 保護先の部屋で、美香は日記帳を開いた。


 鉛筆を持つ。


 手が震える。


 少しだけ考えて、書いた。


 ――今日は、ご飯を食べた。


 その下に、もう一行。


 ――怒られなかった。


 さらに、時間をかけて、もう一行。


 ――帰らなくてよかった。


 書き終えたあと、美香は鉛筆を置いた。


 涙が一粒、日記帳に落ちた。


 でも、その涙は昨日までの涙と少し違っていた。


 悲しみだけではない。


 恐怖だけでもない。


 ほんの少しだけ、安心が混じっていた。


 美香は布団に入り、廊下の気配を聞いた。


 今夜も職員が近くにいてくれる。


 足音がしても、それは怒鳴るためではない。


 守るための音。


 美香は目を閉じた。


 まだ眠りは浅い。


 悪夢も来るかもしれない。


 でも、今日は黒木家ではない。


 今日は、保護された夜の次の夜。


 ほんの少しだけ、昨日より息ができる夜だった。



次回予告


 正式に保護され、黒木家へ戻らないことになった美香。


 怒鳴り声のない食卓。

 食べてもいい朝。

 怖いと言っても責められない夜。


 だが、傷ついた心はすぐには回復しない。


 安心していいとわかっても、身体はまだ怯えている。

 眠っていいとわかっても、夜の足音が消えない。


 そして美香は、保護先で初めて「普通の朝」を迎える。


 次回、第四十一話

 「保護された夜」

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