通報
第三十九話
「通報」
美香の言葉は、もう記録だけに留めておける段階を超えていた。
暴力。
ネグレクト。
人格否定。
支援金の不適切使用の疑い。
そして、希死念慮。
学校、保護先、児童相談所、市役所の関係者は、正式に警察への相談と通報を進めることを決めた。
村瀬由紀は、会議室で静かに言った。
「もう“家庭の問題”ではありません。美香ちゃんの命の問題です」
誰も反対しなかった。
担任は、美香のノート、欠席記録、保健室での記録を提出した。
保健室の先生は、身体の状態や必要な物が与えられていなかった経緯をまとめた。
保護先の職員は、LINEの文面、夜間のフラッシュバック、希死念慮の訴えを報告した。
そして、村瀬由紀は、支援金が美香本人の生活に十分届いていなかった可能性を伝えた。
それらは一つ一つは小さな点だった。
だが、つなげれば、はっきりと一本の線になった。
美香は、長い間、助けを求められなかった子どもだった。
そして今、大人たちはようやくその声を聞いた。
その日の午後、美香は保護先の静かな部屋で職員から説明を受けた。
「これから、警察にも話をします」
美香の顔がこわばった。
「私……怒られますか」
「怒られません」
「お父さんとお母さんに……知られますか」
「必要な対応はされます。でも、美香さんを守るために進めます」
美香は膝の上で手を握った。
「私が言ったから……」
「違うよ」
職員は、はっきり言った。
「悪いことをした人が、責任を問われるんです。美香さんが悪いんじゃない」
美香はすぐには頷けなかった。
黒木家では、何もかもが自分のせいだった。
お金がないのも。
父が怒るのも。
母が黙るのも。
支援金が止まるのも。
全部、美香が悪いと言われてきた。
だから「悪いのはあなたじゃない」という言葉は、すぐには心に入ってこなかった。
でも、保護先の職員は繰り返した。
「何度でも言うよ。美香さんは悪くない」
その言葉に、美香は小さく泣いた。
夕方、黒木家にも連絡が入った。
和正は激怒した。
「ふざけるな! 家庭のことに警察まで入れるんか!」
香織は隣で青ざめていた。
だが、もう怒鳴り声だけでは止められなかった。
学校も、児童相談所も、市役所も、保護先も、警察も動いていた。
和正がどれだけ「大げさだ」と言っても、残された記録があった。
美香の痣。
食事を与えられなかった証言。
人格を否定するLINE。
支援金の使途への疑い。
本人の「帰りたくない」「助けて」という言葉。
もう、なかったことにはできなかった。
その夜、美香は保護先で眠る前、職員に聞いた。
「私、これからどうなりますか」
職員は少し考えてから答えた。
「すぐに全部は決まらない。でも、美香さんが安心して暮らせる場所を探していく」
「黒木の家には……」
「今すぐ戻すことはありません」
美香は、深く息を吐いた。
その息は、泣き声に近かった。
怖い。
でも、帰らなくていい。
その二つの間で、美香は揺れていた。
それでも、黒木家の扉は少しずつ遠ざかっていた。
大人たちは、もう迷わない。
美香を守るために、通報という線を越えた。
次回予告
学校、保護先、児童相談所、市役所、警察。
美香を守るための輪が、ようやく形になる。
黒木和正と香織は抵抗するが、記録と証言は積み重なっていた。
そして、美香は再び保護される。
怒鳴り声のない夜。
食事のある朝。
それでも消えない恐怖。
次回、第四十話
「保護」




