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帰る場所~光の指す方へ  作者: リンダ


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崩れた音

第三十八話


「崩れた音」


 その夜、保護先のリビングではテレビがついていた。


 ニュース番組だった。


 画面の中では、殺人事件や暴力事件の報道が流れていた。


 大きな見出し。

 深刻な声のアナウンサー。

 現場周辺の映像。

 泣き崩れる関係者。

 暴力という言葉。

 命という言葉。


 その音が、美香の中に入ってきた瞬間だった。


 胸の奥で、何かが崩れた。


 黒木家の夜が戻ってくる。


 缶ビールの音。

 和正の足音。

 怒鳴り声。

 香織の沈黙。

 閉じたドア。

 布団の中で息を殺していた自分。


 美香は、耳を塞いだ。


「やめて……」


 声が震える。


 テレビの音は小さくなった。


 職員がすぐにリモコンを手に取る。


「美香さん?」


 だが、美香にはもう聞こえていなかった。


 頭の中で、和正の声が何度も響いていた。


 お前なんか。

 役立たず。

 金食い虫。

 生まれなければよかった。


 美香は膝を抱え、身体を丸めた。


「もういや……」


 息が苦しい。


 心臓が痛い。


 今いる場所は安全なはずなのに、身体はそれを信じてくれない。


「もう……私を誰か殺して……」


 その言葉が出た瞬間、部屋の空気が止まった。


 職員は慌てなかった。


 けれど、すぐに美香のそばに来た。


「美香さん、今ここにいるよ」


 美香は耳を塞いだまま、首を振った。


「いや……もういや……生きてるのが怖い……」


「うん。怖いね」


「私が悪いから……」


「違う」


 職員の声は、静かだった。


「美香さんが悪いんじゃない」


 美香は泣きながら言った。


「でも、そう言われた……ずっと……」


「言われたことが本当とは限らない」


 職員は、少し離れた場所に座った。


 近づきすぎない。

 触れすぎない。

 逃げ道をふさがない。


 美香が怖がらない距離を保ちながら、ただそこにいた。


「テレビ、消したよ」


 美香は、少しだけ顔を上げた。


 画面は黒くなっていた。


 音は消えていた。


 でも、美香の中の音はまだ鳴っていた。


「音が……消えない……」


「うん」


「頭の中で、ずっと……」


「今は、怖い記憶が戻ってきてるんだと思う」


 職員はゆっくり言った。


「でも、ここは黒木家じゃない。今、美香さんの前に和正さんはいない。怒鳴っている人もいない」


 美香は震えながら、周囲を見た。


 リビング。

 テーブル。

 消えたテレビ。

 職員の顔。

 廊下の灯り。


 黒木家ではない。


 それでも、心はまだ戻ってこなかった。


 保護先では、その夜すぐに担当職員と相談員が対応した。


 美香を一人にしないこと。

 刺激になるニュースや暴力的な映像から距離を取ること。

 眠れない夜は職員が近くにいること。

 必要なら医療機関や心理士につなぐこと。


 美香は、自分が迷惑をかけていると思った。


「ごめんなさい……」


 職員は首を振った。


「謝らなくていい。怖くなったら、言っていい」


「こんなこと言ったら……」


「言っていい」


 美香は、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま職員を見た。


「死にたいって思うのも……言っていいんですか」


 職員は、少しだけ息を吸った。


「言っていい。そう思うくらい苦しいんだって、ちゃんと伝えていい」


 美香はまた泣いた。


 怒られなかった。


 気味悪がられなかった。


 面倒くさがられなかった。


 そのことが、逆に涙になった。


 その夜、美香は職員室に近い部屋で眠ることになった。


 眠る前、職員が聞いた。


「今、危ないものをそばに置かないようにしておくね」


 美香は小さく頷いた。


「……はい」


「眠れなかったら、呼んで」


「はい」


 明かりは完全には消さなかった。


 薄い灯りが、部屋の隅に残っていた。


 美香は布団に入り、耳を澄ませた。


 怒鳴り声はない。


 缶ビールの音もない。


 テレビのニュースもない。


 ただ、廊下の向こうで職員が静かに動く音がする。


 守るための音。


 美香は、まだ生きたいとは思えなかった。


 でも、死にたいと言っても怒られない場所があることを知った。


 それは、壊れた心にとって、ほんの小さな支えだった。


 翌日、学校には連絡が入った。


 担任も、保健室の先生も、村瀬由紀も、強い危機感を共有した。


 美香の心は、もう限界を超えていた。


 安全な場所に移っただけでは足りない。


 心の傷に、きちんと手当てが必要だった。


 保健室で、担任は美香に言った。


「黒木さん、昨日のこと聞いたよ」


 美香はうつむいた。


「ごめんなさい」


「謝らなくていい」


 先生は、ゆっくり続けた。


「苦しい時に苦しいって言うのは、悪いことじゃない」


 美香は、小さく震えた。


「私……変ですか」


「変じゃない」


「でも、ニュース見ただけで……」


「怖い経験をした心が、びっくりしたんだと思う」


 保健室の先生も言った。


「身体の傷と同じで、心の傷も痛むことがあるんよ。痛むのは、美香さんが弱いからじゃない」


 美香は黙っていた。


 すぐには信じられなかった。


 それでも、言葉は心のどこかに残った。


 その日の放課後。


 村瀬由紀が保健室へ来た。


 美香は、少しだけ顔を上げた。


「美香ちゃん」


 由紀は、いつものように急に近づかなかった。


「昨日、怖かったね」


 美香は頷いた。


「……はい」


「でも、言えてよかった」


 美香は驚いた。


「よかった……?」


「うん。黙って一人で抱えたままだったら、もっと危なかったから」


 美香は、両手を握った。


「言ってもいいんですか」


「いい」


「死にたいって思ったら……」


「一人で抱えないで。先生でも、保護先の人でも、私でもいい。言って」


 美香の目から、また涙が落ちた。


「迷惑じゃないですか」


「迷惑じゃない」


 由紀は、はっきり言った。


「美香ちゃんが生きてることは、迷惑じゃない」


 その言葉に、美香は声を出して泣いた。


 ずっと、逆のことを言われてきた。


 食べるな。

 金食い虫。

 役立たず。

 生まれなければよかった。


 でも、今。


 生きていることは迷惑じゃないと言われた。


 その言葉は、美香の中にすぐには根づかない。


 でも、枯れた土に落ちた小さな種のように、確かにそこへ入った。


 崩れた音は、まだ止まらない。


 けれど、その音の中に、別の音が混じり始めていた。


 「謝らなくていい」


 「ここにいるよ」


 「生きていることは迷惑じゃない」


 美香は、その音をまだ信じきれない。


 でも、いつかその音が、自分を支えてくれる日が来るかもしれない。


 その日まで、大人たちは美香を一人にしないと決めた。



次回予告


 テレビニュースの暴力事件をきっかけに、美香の心は崩れた。


 希死念慮。

 フラッシュバック。

 消えない怒鳴り声。


 だが、保護先の職員も、学校も、村瀬由紀も、美香の言葉を受け止めた。


 そして、ようやく心理的なケアが本格的に始まる。


 次回、第三十九話

 「通報」


 子どもを守るため、大人たちはもう迷わない。

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