保護者席
第三十七話
「保護者席」
城南中学校の入学式から、数日が過ぎた。
新しい教室。
新しい机。
新しい制服。
新しい名札。
けれど、美香の心だけは、まだ黒木家の暗い部屋に置き去りにされたままだった。
スマホに届いた言葉は、学校と保護先、児童相談所によって記録された。
《お前は何の役にも立たん》
《帰ってこいや》
《お前に出されてた金が入らんようになった》
それは、親から子への連絡ではなかった。
支配だった。
脅しだった。
人格を削る言葉だった。
担任の先生は、美香を呼び出した。
「黒木さん。しばらく、保護者から直接連絡が来ないように調整することになったよ」
美香は膝の上で手を握った。
「……怒られませんか」
「怒られる必要はないよ」
「でも、私がスマホ見せたから……」
「見せてくれてよかった」
先生は、はっきりそう言った。
「黒木さんを守るために必要なことだった」
守る。
その言葉は、まだ美香の中でうまく形にならなかった。
黒木家では、守るという言葉は存在しなかった。
我慢しろ。
黙れ。
食べるな。
余計なことを言うな。
そればかりだった。
だから、美香は「守られる」ということが、よくわからなかった。
その日の放課後。
体育館では、部活動紹介の準備が進んでいた。
バスケットボール部。
陸上部。
美術部。
吹奏楽部。
それぞれの先輩たちが、新入生に声をかけている。
「見学だけでも来てね!」
「初心者歓迎!」
「楽しいよ!」
美香はその声を、遠くから聞いていた。
自分には関係ない気がした。
部活に入るには、道具がいる。
時間がいる。
お金がいる。
人と関わる勇気がいる。
どれも、美香には遠かった。
教室に戻ると、担任がプリントを配っていた。
「来週、保護者説明会があります。保護先の職員さんか、児童相談所の担当の方に確認してもらえるようにします」
保護者。
その言葉に、美香の胸が小さく痛んだ。
保護者席。
小学校の卒業式。
中学校の入学式。
空席だった場所。
でも今、美香は思った。
あそこに黒木和正と香織が座っていたとして、自分は安心できただろうか。
答えは、すぐに出た。
できない。
来てほしいのではない。
ただ、自分にも誰かに見守られる権利があったはずだと思うから、痛いのだ。
保護者説明会の日。
体育館には、たくさんの保護者が集まった。
美香は生徒として後方の席に座っていた。
他の生徒の後ろには、父や母の姿がある。
プリントを読み、先生の説明を聞き、時々子どもの方を見る。
美香の後ろには、保護先の職員が座っていた。
児童相談所の担当者も、少し離れた場所にいた。
黒木和正と香織はいない。
それは正しい対応だった。
わかっている。
わかっているのに、美香の胸はざわついた。
自分は普通ではない。
その事実を、体育館の空気が突きつけてくる。
説明会が終わったあと、保護先の職員が美香に声をかけた。
「疲れた?」
美香は少し迷ってから頷いた。
「……はい」
「そうだよね。こういう場は、しんどいよね」
美香は驚いて顔を上げた。
しんどいと言ってもいいのだろうか。
職員は続けた。
「でも、美香さんのことを見守る大人は、ちゃんといます」
美香は黙った。
その言葉を信じたい気持ちと、信じるのが怖い気持ちがあった。
帰り道、保護先の車の中で、美香は窓の外を見ていた。
夕方の街。
制服姿の中学生たち。
買い物袋を持つ母親。
自転車に乗る子ども。
犬を散歩させる老人。
普通の暮らしが流れている。
美香は、ぽつりと言った。
「私、普通じゃないんですか」
職員はすぐに否定しなかった。
簡単に「普通だよ」と言うのは、少し違う気がしたからだ。
「美香さんは、普通じゃない経験をさせられてきた」
職員は静かに言った。
「でも、美香さん自身がおかしいわけじゃない」
美香は唇を噛んだ。
「私が悪いんじゃないですか」
「悪くない」
「でも、家では……」
「家で言われたことが、正しいとは限らない」
その言葉に、美香の目が揺れた。
黒木家では、父の言葉が絶対だった。
母の沈黙も、絶対だった。
そこでは、美香が悪いことになっていた。
食べるから悪い。
お金がかかるから悪い。
助けてと言ったから悪い。
生まれてきたから悪い。
でも、ここでは違うと言われる。
それは、救いであると同時に、美香の中の世界を揺らす言葉だった。
その夜。
美香は保護先の自室で、渡された日記帳を開いた。
カウンセラーに勧められたものだった。
「言葉にできない時は、少しだけ書いてみるのもいいよ」
そう言われていた。
美香は鉛筆を持った。
手が少し震えた。
ページの一番上に、ゆっくり書いた。
――保護者席がこわかった。
その下に、少し考えてから書いた。
――でも、誰も怒らなかった。
また少し間を置いて、書いた。
――私は悪くないって言われた。
鉛筆が止まる。
涙が落ちそうになった。
信じられない。
でも、信じたい。
美香は最後に、小さく書いた。
――ほんとうに?
その夜、美香はまた悪夢を見た。
体育館の保護者席に、和正が座っている夢。
和正は笑っている。
でも、その笑顔は優しくない。
美香が壇上に立つと、和正が低い声で言う。
「帰ってこい」
逃げようとしても、足が動かない。
保護者席がどんどん近づいてくる。
目が覚めた時、美香は息を切らしていた。
すぐに職員を呼んだ。
「怖いです」
今度は、言えた。
職員は部屋の明かりを少しつけ、コップに水を入れて持ってきた。
「ここにいるよ」
その言葉を聞きながら、美香は水を飲んだ。
夜の足音ではなく、守るために来る足音。
同じ足音でも、意味が違うのだと、美香は少しずつ知っていく。
保護者席は、まだ美香にとって痛みの場所だった。
でも、そこに座る人は、血のつながりだけで決まるものではない。
美香はまだ知らない。
この先、小倉優馬と美鈴という二人が、自分の人生の保護者席に座ることになる。
怒鳴るためではなく。
連れ戻すためではなく。
ただ、見守り、守り、何度でも「おかえり」と言うために。
その日は、まだ遠い。
けれど、美香の周りには、少しずつ空席を埋めようとする大人たちが集まり始めていた。
次回予告
保護者席に両親はいない。
だが、美香を見守る大人は、少しずつ増えていく。
保護先の職員。
担任。
保健室の先生。
村瀬由紀。
児童相談所の担当者。
それでも、黒木家から受けた傷は簡単には消えない。
悪夢。
希死念慮。
自責。
そして、ふとした瞬間に崩れる心。
次回、第三十八話
「崩れた音」




