中学校入学式
第三十六話
「中学校入学式」
春が来た。
美香は、城南中学校の制服に袖を通した。
新しい制服だった。
けれど、美香の心は新しくならなかった。
鏡の前に立っても、そこに映っている自分が中学生になったという実感はなかった。
ただ、服だけが変わった。
校章だけが変わった。
通う場所だけが変わった。
でも、胸の奥に残った恐怖は、何ひとつ変わっていなかった。
入学式の日。
体育館には、保護者たちが並んでいた。
新しい制服を着た子どもたちを見て、笑う母親。
写真を撮る父親。
「大きくなったね」と涙ぐむ祖父母。
美香は、前を向いて座っていた。
後ろを振り返らなかった。
振り返らなくてもわかっていた。
黒木和正も、黒木香織も、来ていない。
小学校の卒業式と同じだった。
いや、少し違った。
卒業式の時は、まだ胸が痛んだ。
来てほしかったのか、来てほしくなかったのか、自分でもわからなかった。
でも今回は、痛みよりも空っぽだった。
ああ、やっぱり。
それだけだった。
中学校生活が始まっても、美香は保護先から通う形になった。
黒木家には戻らない。
けれど、黒木家は美香を手放していなかった。
ある夜。
連絡用に持たされていたスマホが震えた。
画面には、香織からのLINE通知。
美香は、開く前から胸が苦しくなった。
指が震える。
でも、見ないわけにはいかない気がした。
画面を開く。
そこには、短い言葉が並んでいた。
《このやろー》
《お前が児相に入ったから、お前に出されてた金が入らんようになったやろ》
《お前は何の役にも立たん》
《帰ってこいや》
《いつまで被害者ぶっとると》
文字なのに、和正の怒鳴り声が聞こえるようだった。
美香はスマホを握ったまま固まった。
呼吸が浅くなる。
目の前の部屋は静かなのに、頭の中では缶ビールの音がした。
プシュ。
足音がした。
ギシ。
怒鳴り声がした。
お前なんか。
金食い虫。
役立たず。
生まれんかったらよかった。
美香はスマホを布団の上に投げ出し、両耳をふさいだ。
でも、文字は消えない。
目を閉じても、読んだ言葉が頭の中で繰り返される。
その夜、美香は眠れなかった。
眠りかけると、悪夢を見た。
黒木家の玄関。
逃げようとしても足が動かない。
和正の足音が近づいてくる。
香織は後ろを向いている。
自分は声を出そうとする。
助けて。
でも声が出ない。
目が覚めると、全身に汗をかいていた。
心臓が激しく鳴っている。
ここは黒木家ではない。
怒鳴り声はない。
でも、身体はまだあの家に閉じ込められていた。
中学校では、美香は静かだった。
授業中も、休み時間も、必要最低限しか話さない。
新しいクラスメイトたちは、最初は声をかけてくれた。
「黒木さん、どこの小学校?」
「部活、何入る?」
「一緒に帰る?」
美香は、そのたびに小さく答えた。
「城南小です」
「まだ決めてません」
「大丈夫です」
大丈夫。
また、その言葉だった。
中学生になっても、美香は同じ言葉を使っていた。
何も大丈夫ではなかったのに。
ある日の昼休み。
美香はトイレの個室でスマホを見てしまった。
またLINEが来ていた。
《お前のせいで家がめちゃくちゃや》
《戻ってきて謝れ》
《親に迷惑かけて楽しいか》
《お前はほんとにいらん子やな》
美香の手からスマホが落ちそうになった。
膝が震える。
息が苦しい。
頭の中に、ひとつの考えが渦巻いた。
もう、消えたい。
死んでしまいたい。
この苦しみから、全部から、解放されたい。
それは、美香が望んで考えたことではなかった。
追い詰められた心が、出口を見失ってしまった結果だった。
生きたい気持ちがないのではない。
痛みが大きすぎて、生きる場所が見えなくなっていた。
その時、トイレの外から声がした。
「黒木さん?」
担任の先生だった。
「大丈夫?」
美香は答えようとした。
でも声が出なかった。
しばらくして、個室の扉の向こうから、もう一度やさしい声がした。
「急がなくていいよ。先生、ここにいるから」
その言葉で、美香の目から涙が落ちた。
誰かが、外にいる。
怒るためではなく、待つために。
美香は、震える手で鍵を開けた。
扉が少し開く。
担任の先生は、驚いた顔をしなかった。
ただ、美香の顔を見て、すぐに言った。
「保健室に行こう」
保健室で、美香はスマホを見せた。
LINEの画面。
人格を否定する言葉。
帰ってこいという命令。
支援金が入らなくなったことへの怒り。
先生の顔色が変わった。
保健室の先生も、黙って画面を見つめた。
「これは、保存しておこう」
担任の先生は静かに言った。
「美香さん、これはあなたが悪いんじゃない」
美香は首を振った。
「でも……私が児相に入ったから……」
「違う」
先生の声は、いつもより少し強かった。
「美香さんを守るために保護されたんです。お金のために、あなたが家に戻る必要はありません」
美香は唇を噛んだ。
「でも、帰ってこいって……」
「帰らなくていい」
保健室の先生が言った。
「あなたを傷つける言葉を送ってくる場所に、戻らなくていい」
美香は、両手で顔を覆った。
泣いた。
声を殺す癖がまだ残っていて、最初はうまく泣けなかった。
でも、少しずつ涙が止まらなくなった。
保健室の白いカーテンが、窓から入る風で揺れていた。
中学校の校舎の中。
新しい生活のはずの場所で、美香はまだ過去に追いかけられていた。
その日のうちに、学校は児童相談所と保護先へ連絡した。
スマホのメッセージは証拠として保存された。
連絡方法の制限も検討されることになった。
美香を守るために、外からの言葉を遮断する必要があった。
その夜。
保護先で、美香はスマホを職員に預けた。
「見なくていいようにしよう」
職員が言った。
美香は小さく頷いた。
怖かった。
でも、少しだけ安心した。
それでも、悪夢はすぐには消えない。
眠る前、美香は布団の中で目を閉じた。
頭の中にはまだ、言葉が残っていた。
役に立たん。
帰ってこい。
いらん子。
美香は震えながら、毛布を握った。
その時、保護先の職員が部屋の前で声をかけた。
「美香さん、眠れそう?」
美香は少し迷ってから言った。
「……怖いです」
以前なら、言えなかった。
でも、その夜は言えた。
職員は廊下に椅子を置いた。
「じゃあ、少しここにいるね」
足音ではなく、人がそばにいる気配。
怒鳴るためではなく、守るための気配。
美香は、毛布の中で小さく息を吐いた。
中学校入学式の日、保護者席は空だった。
でも、美香の周りには、少しずつ別の大人たちが立ち始めていた。
まだ、美香は自分の未来を信じられない。
死にたいという思いが、波のように押し寄せる夜もある。
それでも、誰かに「怖い」と言えた。
それは、ほんの小さな一歩だった。
けれど、美香が生きる方向へ戻るための、確かな一歩だった。
⸻
次回予告
中学校に入学しても、黒木家からの支配は終わらなかった。
スマホに届く人格否定の言葉。
帰ってこいという命令。
支援金への執着。
美香の心は再び追い詰められ、希死念慮が渦巻く。
だが、学校はそのメッセージを見逃さない。
保護先、児童相談所、学校が連携し、美香を黒木家からさらに遠ざけようと動き出す。
次回、第三十七話
「保護者席」




