卒業式の空席
第三十五話
「卒業式の空席」
美香は、再び保護された。
今度は、家には戻されなかった。
児童相談所の職員が学校へ来た時、美香は保健室の椅子に座っていた。
両手を膝の上で握りしめ、何度も何度も同じことを聞いた。
「今日は……帰らなくていいんですか」
職員は、はっきり答えた。
「帰らなくていいです」
その言葉を聞いた瞬間、美香の身体から力が抜けた。
泣きそうになった。
でも、泣くのも怖かった。
泣いたら怒られる。
その癖は、まだ身体に残っていた。
担任の先生が、美香のそばにしゃがんだ。
「黒木さん。先生たちは、あなたを守るために動いています」
美香は小さく頷いた。
その日の夕方、香織から学校へ電話があった。
続いて、和正からも連絡が入った。
「勝手に連れて行くな」
「家庭の問題だ」
「大げさに騒ぎすぎだ」
「娘を返せ」
だが、もう学校も児童相談所も引かなかった。
暴言。
食事制限。
必要な物を与えないネグレクト。
身体的暴力。
帰宅への強い恐怖。
そして、本人の「助けて」という訴え。
美香は、守られるべき子どもだった。
その当たり前を、ようやく大人たちは手放さなかった。
保護先での夜。
美香は布団の中で、なかなか眠れなかった。
足音がしない。
缶ビールの音がしない。
怒鳴り声がしない。
静かすぎる夜が、逆に怖かった。
でも、少しずつ気づいた。
この静けさは、嵐の前の静けさではない。
ただ、誰も怒鳴らない夜なのだと。
美香は、布団の端を握りながら、小さく息を吐いた。
そして数か月が過ぎた。
美香は城南小学校の卒業式を迎えた。
式場には、たくさんの保護者がいた。
カメラを構える父親。
涙ぐむ母親。
花束を持つ祖父母。
子どもたちは、少し照れくさそうに、でも誇らしそうに並んでいた。
美香も卒業証書を受け取った。
「黒木美香」
「はい」
声は小さかったが、確かに返事をした。
壇上へ上がる。
校長先生から証書を受け取る。
礼をする。
拍手が聞こえた。
けれど、美香は客席を見なかった。
見なくてもわかっていた。
そこに、黒木和正も、黒木香織もいない。
保護者席の一角に、空席があった。
誰も座らない椅子。
美香は、その椅子を見ないようにした。
だが、視界の端に入ってしまう。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
来てほしかったのか。
来てほしくなかったのか。
自分でもわからなかった。
あんなに怖かった父と母。
助けてくれなかった父と母。
自分を傷つけた父と母。
それでも、卒業式の保護者席が空いていることは、やっぱり痛かった。
式が終わったあと、クラスメイトたちは親と写真を撮っていた。
「卒業おめでとう!」
「大きくなったね」
「中学校でも頑張ってね」
美香は、少し離れた場所に立っていた。
担任の先生が近づいた。
「黒木さん」
美香は顔を上げた。
「卒業、おめでとう」
先生は、花を差し出した。
小さな花束だった。
美香は、両手で受け取った。
「……ありがとうございます」
「よく頑張ったね」
その言葉に、美香の目が揺れた。
頑張った。
誰かにそう言われたのは、久しぶりだった。
その時、村瀬由紀と千夏も来た。
「美香ちゃん、卒業おめでとう」
千夏が少し照れながら言った。
「中学でも、また一緒に話そうね」
美香は小さく頷いた。
泣きそうになった。
でも今度は、泣いても怒られない気がした。
卒業アルバムを抱えながら、美香は校庭を見た。
城南小学校。
楽しい思い出だけの場所ではなかった。
いじめられた。
笑われた。
孤立した。
助けてと言えなかった。
でも、ここには気づいてくれた大人もいた。
先生がいた。
保健室の先生がいた。
村瀬由紀がいた。
千夏がいた。
美香は、完全に救われたわけではない。
傷はまだ深い。
これからも、何度も思い出すだろう。
それでも、この日、美香は黒木家だけが世界ではないことを、少しだけ知った。
保護者席の空席は、痛かった。
でも、その空席の周りには、美香を見てくれる人たちがいた。
卒業式の帰り道。
美香は花束を抱えて、ゆっくり歩いた。
小さな声で、つぶやいた。
「卒業……できた」
それは、ただ学校を卒業したという意味だけではなかった。
怒鳴り声の中で消えかけた自分が、まだここにいる。
その証のような言葉だった。
次回予告
城南小学校を卒業した美香。
だが、保護者席に両親の姿はなかった。
痛みと安堵が混じる卒業式。
そして春。
美香は城南中学校へ進学する。
新しい制服。
新しい教室。
新しい人間関係。
だが、過去の傷は消えない。
次回、第三十六話
「中学校入学式」




